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第八章 郢書燕説

第八章 郢書燕説


【神聖紀1223年6月、エスピノザ】
 6月初旬にミカエラが帰郷した時、父親のパウロはベッドの上に胡座をかいて「もう起きても問題ないのだが、周りが心配するから、我慢してじっとしている」と笑っていた。
 そして次の日には、ベッドを出て、自分で髭を剃り落とした。
「姉上が帰って来たので、気が大きくなっていらっしゃる」
 14歳の弟フリオが、顔を綻ばせて言った。
「あまり無茶をなさいますと、ぶりかえしますよ」
 ミカエラは心配そうに言ってみたが、心に深刻さはなく、声も軽やかだった。父親はやや痩せているようだったが、無理をしているようには見えなかったからだ。
 その翌日から、父パウロはまだ陽射しの柔らかい朝に、庭を散歩するようになる。その時には、ミカエラが万一に備えて付き添った。
「こんな事で勉学を中断させて悪かったな」
 父親は口癖のように何度も言った。
「でも、いい休息にはなるかも」
「どうだアルテブルグは?」
「そうね。来年には、どうにか論文も書かないと」
「だが、学問ばかりしておると、理屈っぽくなっていかん。お前は伯爵家の令嬢だと言う事も忘れるなよ。人にはその地位に即した責務がある。お前も家のために――」
「分かっています」
 ミカエラは少し強く言って、父の言葉を強制的に打ち切らせる。父の声には、以前からミカエラに抱く不満が全体に見えていた。
 父親にすれば、有力貴族と姻戚関係を結んで、外から伯爵家の援助して欲しいと願っていた。そのために、箔を付ける目的でアルテブルグへの留学も許した。それが、学歴ばかりが異常に高くなってしまい、逆に敬遠されている。それが後悔とまではいかないが、残念ではあった。
 父娘の会話はそれで一旦途切れた。
 だが、ミカエラにしても知的探求の渇きを癒し始めたばかりの頃であり、それらを放棄する気にはどうしてもなれないでいる。行き詰まった気持ちで、ミカエラは自分の未来を考えた。
――何れは何処かの貴族に嫁ぐ事になるのだろう。開明的な夫とともに領国経営をできれば良いのだけれども……でも、出来る事なら、誰の、何の制約も受けず、もっと広い世界で活躍してみたい……
 ぼんやり考えていると、横を歩く父親が一歩遅れる。
 病み上がりの父パウロは、疲れを感じて足を止めていた。その時に、ミカエラが父の体を支えてやろうとすると、照れたようにそれを嫌がった。
 家族揃っての大歓迎を受けて、一週間が瞬く間に過ぎた。初め下にも置かない扱いが、
次第にミカエラの存在に慣れた家族は、熱が冷めたように粗末に扱うようになっていく。
 しかし、ミカエラ自身も、刺激に満ちたアルテブルグでの生活ばかり考えるようになっていた。身体中がうずうずとして、じっとしていられない衝動にかき立てられる。
 そして、帰郷して8日目の朝食時、家族との会話も上の空で、アルテブルグへの出立の日を2日後に決める。
 だが、その夜、父親の容体は急変した。そして、もう一度朝日を見る事はなかった。


【神聖紀1223年8月、エスピノザ】
 エリース湖に突き出したセレーネ半島には、背骨のようにカレドリア山脈が東西に細く連なっている。北よりに偏っているために、北と南では環境ががらりと変わる。
 南岸は山脈が緩やかに傾斜して、広い平野が広がる。一方、北岸は急峻で、山が湖近くまで迫り平坦な箇所は少ない。文化経済的にも、南はセリアを中心としたサリス圏に属するが、北はアルティガルド王国の影響が色濃い。
 エスピノザ地方はこのセレーネ半島北岸の中央部に位置している。半島最高峰のエルジェス山を背後に配し、そこから流れ出したドロス川が、狭いが肥沃な大地を育んでいる。
 この北エスピノザ州を領するのが、セレーネ帝国以来の名門スピノザ伯爵家(28億Cz)である。元々は全エスピノザ地方を領していたが、サリス帝国の介入を度々受けて、南半分の領地を失い、また、家臣団を分割する為にアーカスに分家を作るように命じられた。
 かつての勢いは失ったが、それでも長く安定した統治によって、領国の端々まで整備が行き届いて、派手さはないが落ち着いた雰囲気の古都として栄えている。
 一方、上流には南エスピノザ盆地がある。山間と言う事でひなびた印象があるが、北岸と南岸を結ぶ街道など、いくつもの街道が交差する陸路の要衝である。
 北西の峠を越えると、ヴァロン平野を経由して、アルティガルド王国へと街道は続く。また、南東の峠を進むと、南岸に出て、ルブラン公爵家(130億Cz)、オルレラン公爵家(280億Cz)、そして、カロリンヌ侯爵家(98億Cz)などの有力門閥貴族の領地へと至る。
 当初、外様であるスピノザ伯爵家を押さえるために、カール大帝はこの地に側近で律儀な猛将だったナバールを封じたが、南岸の門閥貴族への裏門にあたる事が分かると、多額を援助して巨城建設を命じた。
 それがサッザ城である。サッザ城は盆地のほぼ中央に、人工的な直線で作られた平城で、自然の地形を全く利用していない。石垣を高く積み上げて段差を作り、その延長は4キロにも及ぶ。本丸と二の丸を中央に並べて、それを正方形の三の丸で囲む輪郭式の縄張りで、大軍の駐留を意識した設計になっている。セレーネ半島全体へ睨みをきかせるのに、十分な威容であろう。
 以後、ナバール男爵家では、皇帝の側近として多数の陰謀に加わっていく。これらの功績により、隣接するヴァロン平野に点々と飛び地を与えられた。
 しかし、サリス帝国が弱体化すると、一転、皇帝と距離を置くようになる。そして、周辺の帝国直轄地を併合、さらに多数の領主がモザイク状に存在するヴァロン平野へと武力進出を図っていった。
 現当主のレオン・ド・ナバール男爵は、宿敵ロッシュジャクラン伯爵家などを滅ばして、ついにヴァロン地方を統一する。そして、スピノザ伯パウロが病死すると、即座に北エスピノザへと軍勢と注ぎ込んでいく。伝統あるスピノザ伯爵家は、今滅亡の縁に立たされていた。
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【ハクテ城】
 ミカエラ・デ・スピノザは金色の髪を藍色のバンダナで覆い、紺色のエプロンを付けて、轆轤台に向かって座っている。天井は高く、壁は白い漆喰で全く飾り気がない。質素な木製の棚には、そこにたくさんの磁器が並べられている。ここは城の中にある磁器の工場だ。
 研ぎ澄まされたブルーグリーンの瞳が、じっと指先を見詰める。そのしなやかな指が、土を薄く伸ばして、花瓶の形に整えていく。
――考えなさい、ミカ。何か方法はあるはずよ……
 不意に指先に力が入り、土は崩れて形を失う。ミカエラは大きく息を吐き出すと、土を上から叩いた。

 ここは北エスピノザの南端にあるハクテ城。ドロス川の東岸に位置して、南エスピノザ盆地の出入り口にあたる。城はドロス川に突き出した急峻な岩山の上にあり、正確に800段の石段を登った所に本丸が置かれている。北、南、西の三方は断崖で、唯一人が登れるの東側に、二の丸三の丸を梯郭式に並んでいる。規模としては小さいが、鉄壁の城である。
 本来、スピノザ家はドロス川の河口の港町にあるスピノザ城館を居城としていた。しかし、西のヴァロア地方からナバール軍が侵入して来た為、守りの固いこの城に移っている。
 ナバール軍はヴァロア衆を中心とした軍勢で、ドロス川の西側をほぼ制圧していた。
 スピノザ軍はドロス川に唯一架かる橋を防衛の要として、精鋭500を布陣させている。ここを突破されれば、領内は分断され、ハクテ城は完全に孤立してしまうだろう。
 さらにミカエラを追い込むのが、侵略軍の先鋒を率いているのが、母方の従兄妹にあたるオスカル・ド・ヴィユヌーヴ男爵である事。ヴィユヌーヴ男爵家は、ヴァロン地方にあり、最近ナバール男爵に屈していた。オスカルは爽やかな青年で、ミカエラより年上だが、ミカエラが飛び級しているので同級生になる。幼い頃から様々な事で、二人は競い合ってきた。学問ではミカエラが常に上回っていたが、オスカルは槍馬術に優れ、武人として将来を渇望されていた。最初にアルティガルド王国への留学を言い出したのはオスカルの方だった。オスカルは「アルテブルグの士官学校へ入り、武将として立身出世する」と瞳を輝かせて夢を語った。それにミカエラは触発されて、アルテブルグ大学への留学を決めた。しかし、旅立ちの日を目前にして、オスカルの父親が急死し、それにともなって、オスカルは留学を断念して、慌ただしく家督を継いだ。

「ダメダメ、集中集中」
 ミカエラは頭を振って、邪念を振り払う。それから改めて土をこね始めた。
 ミカエラの細い肩に、重い現実が圧し掛かっている。一族の柱だった父親を亡くし、領土を強敵に犯されて、援軍の期待{あて}もない。もう何日も眠る事ができず、起きている間は、ひたすら出口を求めて、深い思考の迷宮を彷徨い続けている。
 すべての門閥貴族に支援を要請した。しかし、何処もナバール男爵家との直接対決を嫌って、色よい返事を出す所はない。唯一、セレーネ半島の雄オルレラン公メルキオルレは、婚姻を条件に兵を貸すと言ってきた。だが、聡明なミカエラには、オルレラン公が本心からスピノザ伯爵家を救う気がない事が分かっていた。
――私を保護して、状況が変わった時に、ナバール男爵との開戦の理由にでもしようと考えているのだろう……
 学問を究めて、実績を積み重ね、人脈を広げてきた。それらすべての努力が、暴力によって否定されようとしている。これはミカエラにとって何よりも辛く、そして、絶望的な気分に追いやっていく。
 だが、ミカエラはまだ諦めてはいない。
――月夜も十五日、闇夜も十五日、というじゃない……
 こうして、趣味の陶芸に打ち込み、迷走を続ける高度な頭脳をほぐそうとしている。
 その時、ドアが荒々しく開いて、勢いよく弟のフリオが駆け込んでくる。
「姉上、スピノザ橋での戦いが終わりました」
 ミカエラは息を飲んだ。


【スピノザ橋】
 北エスピノザに、ドロス川に架かる橋は一本しかない。このスピノザ橋のたもとには双塔があり、そこを出ると城壁と堀で囲われた小さな広場があった。近代的な城に設けられる馬出のような小さな砦である。平時には関所として、塔は武器庫として使われていた。
 この砦をナバール軍3000が包囲していた。
 頑丈な石造りの砦には、500のスピノザ軍の兵士が拠っている。全員が死を覚悟していた。理不尽に故郷を踏み躙られた怒り、平穏な生活を奪われた悲しみが、退くに退けぬ意地ととなって、ナバール軍と向き合っている。
 一方、攻めるナバール軍の将兵は、ヴァロン地方から刈り出された者がほとんどで、彼らには戦う意味も理由もなく、当然士気も低い。
 戦いは、ナバール軍が数度突撃を繰り返したが、どれも失敗に終わっている。だが、勝鬨を上げて喜ぶスピノザ将兵に、無情にも絶望の影が迫っていた。
「魔物だぁ!!」
 塔の最上階から一人の兵士が叫んだ。その声で、兵士達の心が凍り付く。
 ナバール軍の快進撃の理由は、全てこの魔物の存在に尽きるだろう。“ジュルロ”と呼ばれる魔物で、元々ドラゴン族であったという。数千年の刻の中で、翼を失い、知能は低下して、地上を這い回るだけの卑しい魔物へと退化していた。だが、ドラゴンだった名残で、鋭い牙、体長4メートル体重200キロにも及び巨体、そして、非常に硬い鱗を持っている。
 ジュルロはその長い体を利用して、堀を越えて、城壁に取り付く。塔からは矢の攻撃を受けるが、全て固い鱗で弾き返して全く意に介さない。ジュルロはその巨大な口で、城壁の石を砕き、その切れ目に体を預けて、城壁を崩していく。
 これで、スピノザ軍兵士を支えていた心の結界も崩れた。戦意を失って、次々に川へと飛び込んでいく。
「ここも金と時間と労力をかけて造ったのだろうが、壊れる時は呆気ないものだな」
「猊下の言われる通りですな。こうして悪しき人の世のすべてを壊し尽くしたいものです」
「ああ、新しき世界のために」
 ジュルロの作った城壁の穴を通って、10人の黒い魔術師のローブを着た男達が砦に入って行く。
「ジュルロ、その塔も倒せ。我らの世に不必要なものだ」
 リーダー格の男の命令で、ジュルロは塔の石壁を噛み破り、中へと突き進んでいく。石の砕ける音が周囲に鳴り響くと、魔術師たちは薄気味悪い声で笑い合った。
「うぬ? 如何したジュルロ?」
 と、突然塔の中が静かになった。
「随分可愛らしいペットですね。アキレウス猊下」
「その美しい声は――」
 リーダー格の男がフードを取る。顔は黄金のマスクで隠し、黒く長い髪が黒いローブに上に垂れ落ちた。
「アフロディース・レヴィだな」
 アキレウスはまるで再会を喜ぶように両手を広げて、嬉々とした声で言う。
「“魔力封じの網”で、あの魔物は捉えた。今はこの虫篭の中で大人しくている。次は貴方の番だ」
 アフロディースの鋭利な声が、城壁で囲まれた砦の広場にこだまする。塔の3階の窓に彼女は立っていた。その背後では、二人の部下が顔を半分だけ出している。
「こんな所に、月影神官戦士兵団長が、若干軽率じゃないかね?」
 アキレウスが嘲るように笑う。
「黙れ! 反逆者」
「死をもって罪を償え」
 二人の部下が、アフロディースの背後から、怒りに満ちた声で言い立てる。
「それが、元主教に対する口の利き方かね?」
 アキレウスはのんびりした声で、平然と言いなす。
「では、主教らしく、潔く裁きを受けて頂く」
「我がG・O・Dの誇る魔法剣士9人を倒したなら、相手してやろう」
 アキレウスは言い放つと、顎で部下に指示を与える。9人の黒衣の戦士は、袖から魔剣を取り出して、一斉に構えた。
「成敗ッ!」
 アフロディースは炎の魔剣“フレイムタン”を抜くと、その9人の中へと飛び降りていった。
「南陵氷狼流奥義“氷の剣舞”」
 月の明かりのように淡い銀色の髪が、風に美しく舞い上がる。そして、まるで氷上を円舞するように、高速で回転しながら、剣を振り抜いていく。剣の刃からは舞い散った火の粉が、アフロディースの周囲を旋回して、赤い星々のドレスを纏ったようで、幻想的で美しい。
「……美しい……」
 敵であるアキレウスが一瞬見惚れる。氷上の円舞と炎の剣舞。クールビュティーな仮面の下に炎の情熱をもつ、アフロディースに相応しい取り合わせだったろう。それは見る者すべてを魅了する華麗なる剣の舞いだった。
「……あっ」
 アフロディースのダンスが終わり、ゆっくりと姿勢を正していく。
 それにアキレウスも我にかえる。そして、すでに全部下が斬られている事を知る。
「素晴らしい……聞きしに優る見事な剣だ」
 ゆっくりと数度手を叩く。
「どうだ、我らG・O・Dとともに新しき理想世界へと行かぬか? お前の美しさには、その資格がある」
 色事士のような甘い口調で誘う。
「下種が――」
 ついに、アフロディースは煮え返るような憤りに、思わず大声で叫んでいた。
「この世のすべての人間が、貴様と同じ低俗だと思うな」
「理解して貰えぬとは、残念だな。だが、この世界は本来あるべき姿から、絶望的なほど逸脱して、醜く穢れている。それを正せるのは我ら選ばれし者だけ」
「そんな勝手な事、誰が決めた」
「我らが父なる神だ」
 自己陶酔した様子で言い放つ。
「邪神に心を売ったか、外道め!」
「邪神……その言葉、万死に値する!」
 アキレウスから笑いが消える。そして、両手の甲を見せるように、腕を顔の前に立てる。そこには爬虫類の肌のような篭手があった。
 刹那、アフロディースはアキレウスの意図が分からず躊躇する。しかしすぐに気持ちを切り替えて、渾身の一撃を振り下ろした。
「こい」
 と、アキレウスは腕を交差させて、頭上で剣を受け止めようとする。
――勝機!
 アフロディースは勝利を確信する。炎の魔剣の威力なら腕ごと切断できる、そう判断していた。だが次の瞬間、その想いは驚愕へとあっさりと塗り変わる。
「な、何ッ……??」
 フレイムタンは篭手に触れると、綺麗に切断されてしまう。
「これがG・O・Dの力だ。え? どうだい最高だろ?」
 アキレウスの声は、まるで玩具を自慢する子供のようである。
「くっ」
「伝説の幻獣“アマゾオオトカゲ”の腕から作った篭手だ。どんな物でも触れただけで切り裂く」
 そして、素早い突きを、アフロディースの顔目掛けて出す。
 アフロディースは咄嗟に身体を退いて、それを間一髪避けた。
「その美しい顔を醜く切り裂いてくれる」
 仮面の奥で、アキレウスは笑う。
「……」
 それをアフロディースは冷たく見詰める。
「最後だ。アフロディース!」
 体勢を崩したアフロディースを追わって、アキレウスは間合いを詰めていく。
「神装障壁!」
 アフロディースの前に、オレンジ色の半円形のレンズが展開した。
「笑止!」
 しかし、アキレウスの拳はそれを簡単に打ち破る。人差指、中指、薬指の三本がアフロディースの肩当てに突き入った。
「どうだ? 痛いか?」
「……」
 嗜虐的な声で聞く。アフロディースは無言で眉を顰め、そこに銀色の髪が垂れ落ちてくる。
 その時、風が吹いた。アキレウスとアフロディースは、その風の中に魔力を感じて、同時に動きを止める。
「風燕!」
 と、上空から、風の精霊が燕の形となって、アキレウスの顔に襲い掛かってきた。
「ちぃ」
 今度は、アキレウスが後方へ退いた。そして、短距離走のスタートのような格好で、地面に這う。
「誰だ?」
 楽しみの最中を邪魔されて、苦々しげに叫んだ。
「俺の“風燕”をかわすとは、なかなかやるね」
 少年の声が城壁の上からした。
 風の燕はアキレウスの右目の仮面を砕いて、そこから爬虫類のような眼が覗いている。その眼で、その声の主を求めて、城壁の上を見渡す。だが、すでにそこに人の気配はない。
――何だ?
 と、アキレウスは体のすぐ側で、不思議な影を感じる。慌てて視線を戻すと、目の前に黒い革の服を着た少年が立っていた。
「お前は?」
 ぎょっとアキレウスは眼を見開く。あっさりと間合いに入られた事に驚き、体が膠着してしまう。
「野郎が何百匹死のうが関心ないが、俺の女に手を出すことは許せん!」
 言って、動けずにいるアキレウスの左肩に、無造作に短剣を突き刺す。そこはアフロディースの傷と同じ場所である。
「まだ味見もしていないのに」
「くっ……!」
 アキレウスは弾かれたようにさらに後方へと飛び下がって、強張った表情で防御の姿勢を取る。
――前より速くなっている……
 一方、アフロディースは片膝を付いて、肩の傷を押さえていた。だが、瞳はオーギュストを一瞬も見逃さず追尾している。
「目で追ったね? いいセンスをしている」
「ディーン……貴様ッ!」
 オーギュストは、右手を腰に当て、重心を左足に乗せる。それから、膝を曲げて、右の踵を浮かせると、爪先で立った。
「センスだけなら、リューフ以上かも」
 オーギュストは好奇な感情を込めた微笑を向ける。
 一方、アフロディースの瞳には、強い憎悪の感情が燃えていた。そのアフロディースの瞳にアキレウスの凶暴な顔が写り込む。しかし、彼女は声を出さず、顔色一つ変えなかった。
 アキレウスの拳が、オーギュストの背中を突く。
「死ねッ!」
 だが、もうそこにオーギュストの姿はない。
「あんたも懲りないねェ~。でも、その篭手は俺も欲しいかも」
 背中から、オーギュストの笑った声がする。アキレウスの体に戦慄が走った。
「ば、バカな……」
 次の瞬間、オーギュストの左肘がアキレウスの首を直撃する。アキレウスの体は激しい衝撃で、塔の中へと殴り飛ばされて行った。
 その間、オーギュストはじっとアフロディースの瞳を見詰め続けていた。
「悪い人だなぁ。教えてくれてもいいのに」
「……」
「ついつい力が入ってね」
「……」
「あの雑魚には悪い事しちゃったよ」
「……」
「どう? 俺って強い?」
「……」
「でも、全然本気じゃなかったら、如何する?」
「……くッ」
「いいね。その瞳。ぞくぞくするよ」
 オーギュストは一言ごとに一歩一歩と近付く。アフロディースは身震いするほどの嫌悪の想いを視線に篭めて、オーギュストを見詰めた。その氷のような情炎に、オーギュストは吸い込まれていく。
 その時、塔の中から獣の咆哮がした。アキレウスが魔力封じの網を切り、ジュルロを再び操り始めた。
「行け! 殺せ! 踏み潰せ!!」
 狂気に満ちた声で、アキレウスは命じる。
 ジュルロは再び、オーギュスト達のいる広場へと、その凶暴な姿を現した。
「ふん」
 オーギュストは鼻で笑う。そして、爪先で落ちていたフレイムタンを蹴り上げると、右手で掴んだ。
「魔剣ってこういう使い方もあるんだよねェ、知ってた?」
 左手を広げて突き出すと、その先に黄金に輝く魔法陣が浮かび上がった。それに折れたフレイムタンを突き入れる。
 炎の精霊が凄まじい勢いで、魔剣から魔法陣へと引き込まれて行く。
「フレイムショット!!」
 そして、魔法陣から灼熱の光弾が撃ち出された。
 それはジュルロの頭を直撃する。光が濁流のように溢れだし、次に熱風が吹き荒れた。
「溶けていく……」
 手で顔を庇っていたアフロディースが再び瞳を開いた時、そこにジュルロの頭はなく、残った胴体部分が飴のように溶けていた。
「まだだ!! まだ勝ったと思うなよ――」
 アキレウスは狂ったように笑った。
「出でよ、フラメタウロス!!」
 アキレウスの絶叫が響き渡ると、広場の地面の一部が液状化して、強大な影が這い上がってきた。
「お前の好物“炎の精霊”がいっぱいいるぞ。さぁ喰え、そして、あの憎たらしい魔術師を引き千切れ!!」
 オーギュストは口の端を片方だけ上げて笑った。
「牛に虎に、それから人か……尻尾は蛇かな。よく混じっている」
「あれが合成獣……」
 フレメタウロスの兇悪な姿を見て、アフロディースは息を飲み込んだ。フレメタウロスは人のように2本の足で立ち、頭部には牛のような角を持ち、体には虎のような縞の毛で覆われている。その毛がジュルロを焼く炎を吸収して、赤く染まっていた。
「これで終わりだ。あははは!!」
 アキレウスは醜く笑う。
「執拗{しつこ}い男だ。もてないよ」
 オーギュストは溜め息混じり言う。
「ちぃッ! 生意気な魔術師の小僧め! だが、こいつは精神統一する隙を与えるほど遅くはないぞ」
 アキレウスは笑い、腕を振り出した。
「やれっ!」
 フレメタウロスは吼えた。その口からは炎の精霊がパチパチと爆[はじ]けている。「グァルルル!」
 牛のような豪腕を横に振る。風が唸り、虎の爪がオーギュストを襲った。
 オーギュストは体を捻りながら舞い上がり、フレメタウロスの頭上を回転しながら飛び越えていく。そして、フレメタウロスの背後に、左手を付いて着地すると、アキレウスに短刀を投げつけた。
 が同時に、フレメタウロスも素早く振り返って、口から火弾を連続で打ち出す。それらがオーギュストの背を直撃すると思われた時、青白いレンズに弾かれて四方に飛び散る。
――術の発動が速い!
 思いもよらず投げつけられた短刀を、辛うじて篭手で斬り落とすと、アキレウスは深く唸る。
――この小僧侮れない。手段など選んでいる場合ではないようだな……
 アキレウスは黒いローブの中から、魔法陣の形をした首飾りを取り出した。そして、朗々と呪文を唱える。
 首飾りが妖しげに光り出すと、それに反応して、斬り倒されていた魔法剣士の体も同じような光を放ちだす。
「この者達の魂を生贄に捧げる」
 アキレウスが唱えると、飛び散っていた火弾が、9人の魔法剣士へと飛び、その体を炎で包んでいく。
「出でよ。火球魔人!」
 魔法剣士を覆った炎は、宙に浮かび、球形へと姿を変えた。そして、そこに人の顔が浮かび上がる。
「どうだ。10体の魔人を相手に如何戦う?」
 勝ち誇ったように、アキレウスが叫ぶ。
「部下の命さえ魔術の道具か。いい性格をしている。嫌いじゃない。と言う事で、これからは一切遠慮しない」
 オーギュストが鋭く言い放つ。
 と、フレメタウロスが背後から迫り、火球間人が四方から飛び掛かってくる。だが、それらの動きはオーギュストに近付くにつれ、目に見えて遅くなっていく。
「なっ、……あれは? 絶対魔術“重力呪縛(グラビトン・フォース)”なのか……」
 アキレウスが眼を剥くと、オーギュストの左手から地面に魔法陣が広がっていた。重力呪縛は、魔法陣の中に入った標的の重力を増加されて、その動きを鈍らせる高度な魔術である。
「信じられない……」
 今度は、戦いを見守っていていたアフロディースが唖然と呟く。
――神装障壁だけでも、相当な負担のはず。だが、同時に別の術を完成させていたのか……
 オーギュストはスローで動く10個の敵を軽くいなしていく。
「どうやら、炎だけじゃなく、重力の魔術も得意のようだな」
 アキレウスが苦々しく言った。
「神装障壁、重力呪縛、それだけだと思われるのは心外だな。言った筈だ。外道に遠慮はしないと」
 オーギュストが言い終わると、重力呪縛の魔法陣の上に、別の魔法陣が青白く描き出されていく。
「水遁」
 周囲に、ゴゴゴ、という水音が鳴り響いた。と、川の水が渦を巻いて天高く駆け登り、それが魔法陣と流れ落ちていく。大量の水は火球魔人を押し潰し、フレメタウロスに膝を付かせた。そして、水は魔法陣の中に吸い込まれて消えていく。
 オーギュストは、折れて魔力を開放し尽くしたフレイムタンを、魔法陣の中央に突き刺す。と、魔法陣から、まるで溶けた鉄のような塊が湧き上がってきて、剣を包み込んでいった。
「さらに、神武魔装」
 オーギュストは剣を一気に引き抜く。それから、体の前で大きく円を描くように振り回す。柔らかい光塊は、剣全体に絡みついて、引き伸ばされていく。
「完成“アクアブレイド”」
 折れた剣は、水色に輝く魔剣へと生まれ変わった。
「絶対魔術“神武魔装”……また…最高度魔術を……」
 アフロディ―スの身体に鳥肌が立つ。
「消えな、不浄の者よ!」
 オーギュストは鋭く踏み込んで、大上段から斬り下ろした。水色の刃がはねて、水の衝撃波の走る。フレメタウロスは一撃で頭から真っ二つに切り裂かれていった。
「逃げたか……まぁいい。鈴は付けた」
 そう呟いた瞬間、天地が歪み、軽い眩暈を感じる。
――またか……
 オーギュストは軽く髪をかき上げなら、アフロディースへ歩み寄る。そして、足元にアクアブレイドを突き刺した。
「やるよ。もっと勉強しな」
 その声はそれまでと違い、興醒めしたように冷淡なものだった。


【スピノザ城館】
 数日後、ミカエラは弟のフリオとともに、港付近のスピノザ城館へと戻ってきた。そこで、二人を迎えたのは、叔父のロベルト・デ・スピノザ男爵である。
「よくぞ無事だった。これからは何の心配も要らんぞ」
 スピノザ男爵は上機嫌に笑っていた。
「ありがとうございます。叔父上」
 フリオは屈託無く頭を下げる。
 その後ろでは、ミカエラが、気が気でない様子で弟を見ていた。
――これでは頼りない甥の危機を救う、勇敢な叔父ではないの。このままではフリオが愚者になってしまう……
 スピノザ男爵は豪快にフリオの背中を叩いて、並んで城館の中へと歩き出す。

 スピノザ城館は、湖際に築かれた小規模な平城である。東西をドロス川、南を城下町、北を湖に囲まれた要害の地にあるが、縄張りや建物は前時代的なものだった。石垣は南側だけで、あとは素朴な土塁で築かれている。また、城壁の屈曲も少なく、堀も狭く浅い。建物も古い様式で、壁が厚く窓が小さい。そのため部屋の中は暗く風通しも悪い。それは歴代伯爵家当主が、サリス帝国を刺激しないように、大規模な改修を行わなかったからであろう。

 ナルセスとマックスは“茜の間”でミカエラ達を待っていた。到着を待つ間、ナルセスは四隅に置かれた見事な磁器の大壷を鑑賞していた。磁器には青い色でワ国独特の花鳥風月が描かれている。この青い色に、エリーシアの貴族達は憧れて、高値で取引されていた。最近では、研究を重ねて、独自に開発する貴族も現れているが、まだこの奥深い青には及んでいない。ここにあるのは、それらエリーシアで作られた模造品ではなく、ワ国からの輸入品で、非常に高価で貴重なものばかりだった。
「おい」
 マックスがナルセスを呼ぶ。廊下から、スピノザ男爵の大きな声が聞こえてきたからだ。
「まるで我が世の春だな」
「虚構の満月だ。欠けるどころか、気が付いた時には全てが消えている」
 二人はニヤリと笑い合う。
 ミカエラ達が入室すると、二人は笑みを消して、恭しく一礼をする。
 “茜の間”は、壁を茜色で塗られた正方形の部屋である。奥に埃の被った暖炉、その前に絨毯が敷かれ、細長いテーブルが置かれていた。
 そこに三つの椅子が用意されている。男爵は当然のように中央の席に座り、「ささ」とその左側の席をフリオに勧めた。
 フリオは蜜柑色の髪の久しぶりに会う叔父と簡単に打ち解けて、完全に心を許していた。
 一方、ミカエラは右側の席を宛がわれたが、それを体よく無視して、フリオの角を挟んだ左前に椅子を動かした。三人は左に偏った歪な形となる。
 それをナルセスが苦々しく見ていた。
「切れるとは聞いていたが、これは厄介かも」
「ギュスを呼ぼうか?」
「今何処に?」
「まだ寝てる」
「よし。じゃ、このままあのご令嬢と対面させるな」
「承知」
 二人は顔を伏せたまま、小さな声で打ち合わせをする。
 と、男爵が仕切るように、ナルセスを紹介し始めた。
「こちらが、あのサリスを救った高名なナルセス・ディアン殿だ」
「はじめまして」
「貴方がディアン殿ですか。色々とお話を……」
 初めて見る英雄に、フリオが弾けるような笑顔を見せる。と、横でミカエラが咳を一つした。
「この度はご苦労でした。スピノザ家を代表して礼を言う」
「いえ、我らは自分達の役割を果たしただけです。ナバール男爵の所業は、世界に混乱を招くだけ、断じて許す事ができません」
「さすがは人徳の英雄だ。言う事が違う」
 スピノザ男爵がはしゃぐように言う。それにフリオは敏感に共鳴して、楽しそうに何度も頷く。その弟の仕草に、ミカエラは小さく溜め息を落とした。
「今後の事は、我等一党にお任せください。フリオ様にはこれまで通り、ハクテ城で心安らかにお待ち下さい。この者を護衛に付けましょう」
 ナルセスはマックスを見る。
「マクシミリアン・フォン・オイゲンです」
 マックスが一歩前に出て、頭を下げた。
「ファン・オイゲンと言いますと、アルティガルドの方ですか?」
「い、いえ、ウェーデリア公国です」
 ミカエラの鋭利な声がした。それにマックスが気後れしたように、噛みながら答えた。
「そうそう、元公国軍だから、弓の達人だぞ」
「達人というほどじゃ……それに魔術通信の方が得意かも……」
 スピノザ男爵が断言すると、マックスは独りもじもじとする。
「では、あのフランコ将軍を超遠距離射撃したのは貴方ですか?」
「へえ?」
「そうです」
 マックスに代わって、ナルセスがきっぱりと言い切った。
「ですから、すべて彼に任せて、ご安心してください」
「すごい!!」
 フリオは有頂天になって、視線をぐるりと回して、その場の全員と顔を見た。
 その横で、ミカエラは冷めた瞳で、マックスを見詰めている。
――カフカ殿から聞いたイメージとは違う……
 マックスは額に脂汗を浮かべている。
「なんか、すっごく見られているんですけど……」
「大丈夫、目さえ合わせなければ、バレやせん」
 マックスがナルセスの背後にじりじりとにじり寄ると、蚊の泣くような声で囁く。ナルセスは笑顔を浮かべたまま、唇を動かさず、まるで腹話術のように器用に話す。
「しかし、何故フリオがハクテ城なのですか?」
 ここまでの会話も決して友好的とは言えなかったが、ミカエラはこの言葉を契機{きっかけ}に、本格的に攻め立てていく。
 ミカエラは当主であるフリオがこの城館に留まるべきだと主張し、一方ナルセスは安全面からハクテ城だと一歩も譲らない。しかし、ミカエラは故事から色々と引用し、さらに、独自の解釈を加えながら、ナルセスを軽く圧倒していく。
 結局、この日は結論を避けて、ナルセス達は退散する。


 姉と弟は、廊下を並んで歩いていた。
「姉上、姉上の態度は礼を欠いています。叔父上とディアン殿は僕達の恩人なのですよ」
「あのナルセスという男は、この地を乗っ取るつもりです」
 ミカエラは言い切る。それにフリオは眉を顰めた。
「そんなーぁ。彼は人徳の英雄なのですよ。サリスの皇女のために戦い、何の見返りも求めなかった」
「彼はアーカスで名声を得ました。次は実利なのでしょう。気を許してはいけません」
「はぁ……姉上は心配性ですね」
 フリオは苦笑する。
「今は味方が一人でも欲しい時だと言ったのは、姉上ではありませんか。第一、リスクが大き過ぎるでしょう。ナバール男爵との戦いは始まったばかり。しかし、ディアン殿がアーカスから率いてきたのは、たったの500なのですよ」
「きっとカルロス王もそう思った事でしょう」
 フリオは不機嫌になって声を荒げる。
「叔父上も帰られ、城内、城下の士気は高まっています。今は団結を一番に考えるべきです」
 ミカエラは立ち止まり、じっと弟を見た。
「そうね」
 そして、優しく微笑む。
「貴方の言う通り。今は味方の結束が重要ですね。私は疑い過ぎたかもしれませんね。ごめんなさい」
「いえ、僕も申し訳ありませんでした。つい大きな声を出してしまって……」
「スピノザ伯爵家の当主として、そのくらいで丁度いいですよ」
「はい」
 フリオは嬉しそうに照れる。姉弟は仲良く笑い合ったが、ミカエラは瞳の奥で、冷静に計算し続けていた。
――フリオなら……これでいい。でも、私はAⅣ(アウスゲツァイヒネト・フィーア)です。読み切りなさい。この場に蠢く簒奪者たちの餓えた邪念を全て。今は混ざり合い隠れているが、一つ一つ整理していけばきっと見えてくる。私になら……できる筈!
 その時、背後から呼びかける声がした。
「お嬢様」
 ミカエラが振り返ると、磁器工場の現場責任者マルコが立っていた。マルコはミカエラの姿を見て、すでに涙ぐんでいる。
「御帰りなさいませ」
「お前も無事で何より。それは如何しました?」
 ミカエラは、マルコが大事そうに両手で持つ箱を見ている。
「そうでした。これです。これを見てください」
 マルコは昂奮した声で言うと、丁寧に箱を開く。
「これはッ!」
 ミカエラはそれっきり次の言葉が出てこない。箱の中には白磁の皿があり、そこに赤い色で、ドラゴンと騎士の絵が描かれていた。
「ワ国の赤絵……でも、この絵柄はエリーシアのもの……どうして?」
 白磁の赤絵はエリーシアでは全く作る事ができず、全てワ国からの輸入品である。貴族達はこのエキゾチックな赤と白のコントラストに魅了されて、小さな壷と城一つを交換してもよい、と公言する者がいるほどである。
 だが、ここに描かれているのは、ワ国の花鳥風月ではなく、エリーシアの神話である。ミカエラはそれ気付くと、心臓が高鳴った。
「それがディアン様のお連れの方が、工場を使われて、これを。そして、焼き上がったら持って来るように言われたのです」
「今何処に?」
 マルコは言い難そうに、目を伏せる。
「それがお嬢様の部屋に……」
「私の!?」
 ミカエラは目を丸くする。

 その頃、オーギュストは“瑠璃の間”と呼ばれる部屋にいた。そこは間口3m、奥行き8mの細長い部屋である。床には紫がかった紺色の絨毯が敷かれ、壁は腰までが木製の板、その上は絨毯と同じ色で塗られている。外壁に面した間口には小さな窓があり、その下にベッドがあった。その両脇には天井まで本が並べられていて、元々はまさに図書室だったらしいが、いつの頃からかミカエラが自室として使っていた。
 オーギュストはベッドの上で、げらげら笑っている。
「あのナルセスが言い負けたか。それは見たかったな。んで、ナルセスは?」
「ベッドの壁の間に蹲って、ぶつぶつ独り言言っている」
 また一段と大きく笑う。
 その時、ミカエラ達が入ってきた。
 その姿を見て、マックスは弓で弾かれたように飛び上がる。
「どうして?」
 そして、頓狂な声を出した。
「ここは私の部屋です。失礼ではありませんか?」
 ミカエラは眉を、きゅうっ、と顰めた。
「しかし、難しい本ばかりでお姫様の部屋じゃ……」
 おろおろとした口調でマックスが言う。
「女が本を読んでは悪くて?」
 眉間の険しい縦皺を刻む。それにマックスは蒼白に顔を引きつらせた。
「そうか、通りでよく眠れた訳だ」
 オーギュストは上体を起こすと、左膝を立て、そこに左の肘を乗せる。
「すぐに出てお行きなさい」
 冷たい声で言う。それにオーギュストは目を細めた。
「ここがお前の部屋だからと言って、それがどうした?」
「……如何したって」
 思わず唖然としたが、すぐにブルーグリーンの瞳を鋭く輝かせる。
「お前の部屋を俺が使って何が悪い」
 オーギュストは睨みつける。その攻撃的な眼光を受けて、ミカエラの瞳が一瞬大きく開く。
――この男だ。カフカ殿言われていたのは、この男の事なのだ!
 オーギュストとミカエラはじっと睨み合う。先に相好を崩したのは、オーギュストの方だった。くすりと笑うと、視線を外して、ミカエラの背後を見渡す。そして、その中に、マルコを見つけると、「焼き上がったか?」と声をかけた。マルコは慌てて体を屈めて、白磁を差し出した。
「まあこんなものだろう」
 オーギュストは一瞥すると、アヒルのような口をして言う。
「じゃ、残り全部焼いて。焼き上がったら、ルブラン公へ持って行ってくれ」
 そう言うと、またベッドに横たわった。
「……ルブラン公バルタザール」
 ミカエラは僅かに唇を動かして、小さく呟く。
 バルタザール・ド・ルブラン公爵は、白磁の大収集家として知られていた。セリア生まれで、文化芸術の造詣が深い。セリア崩壊後は各分野の人材を領地に招いて、今や城下は東の都と称されるほど栄えていた。
――バルタザールはこの赤に心奪われるだろう……。そして、ルブランにはサリスの精鋭がいる。
 ルブラン公爵家は、セレーネ半島の東にある“ルブラン湾”を治める大貴族である。カール5世の叔父ルイが、セレーネ帝国以来の名門ラウレンティウス侯爵家の養子に入り、これを乗っ取って、ルブラン公爵家を興した。カール5世の従兄妹バルタザールは、2代目になる。3代目になる予定の嫡男マテオは、かつてローズマリーと婚約していた。このように、サリス皇室に大変近い位置にある。
 だが、オルレラン公爵家に比べて歴史も浅く、所領も小さい。そこで、バルタザールは東に隣接するサリス帝国の直轄地ブリューストに目を付けた。
 ブリューストには、サリスのエリース湖中央艦隊が駐留し、その軍港を守る難攻不落のブリュースト要塞があった。
 エリース湖中央艦隊は、シャルル1世の時代に整備されて、長らく最強艦隊の名を轟かせていた。しかし、カール5世の時代には、ほとんどの艦船が旧式となり、名ばかりの存在となっている。さらに、カール5世死後は、オルレラン艦隊やアルティガルド艦隊に分割吸収されて、ほぼ消滅していた。
 駐留艦隊を失うと要塞の役目も終わり、要塞とその守備兵約一万は行き場を失ってしまう。そんな時、ルブラン公爵が誘いをかけた。ブリュースト要塞総司令官は、悩んだ末、ルブラン公爵家に身を寄せる決断をする。
 だが、これに将兵は混乱する。ある者はルブランに組み込まれる事を嫌い、出て行こうとする。それをまとめたのが、幕僚のパーシヴァル・ロックハート大佐だった。ワ国人の血が混じっているのか、瞳も髪も黒い。また、背は然程高くないが、肩幅は広く、胸板も厚い屈強な男で、剛毅朴訥な印象を与える。その常に安定した人格から、周囲の信頼も厚かった。ただ、サリスの軍人としての矜持から、あくまでも客将という立場を取り続けていた。
 こうして、サリス正規兵を得て充実したルブラン公軍は、オルレランと対等な力を手に入れた。そして、両公爵家の緊張は日増しに高まっていく。
――赤い染料は巨万の富を産む。それに、ディアン義勇軍にはサリスの名が付いている。サリス兵の一部を借り受けられれば……
 ミカエラはオーギュストを見詰める。
「名は?」
 ミカエラが問う。それに返事をしないオーギュストに代わって、マックスが答えた。
「軍監のオーギュスト・オズ・ディーンです」
「そう」
 ミカエラは素っ気無く頷くと足早に部屋を出ていく。それにフリオも続いた。
「どうして許されるのですか?」
 フリオは長い廊下の途中で、ようやく追いつくと、姉に問い掛けた。
「あの男です」
「え?」
 ミカエラは突然立ち止まる。そして、窓の外へと視線を送った。
「サリスの奇蹟の源。ディアン躍進の原動力。カナン半島でゴーレムを操り、アーカスでフランコを射て、今スピノザ橋で魔物を倒した……」
「……」
 フリオは息を飲む。
――そして、カフカ殿に、組めば不可能はない、と言わしめた男……
 エリース湖の蒼い水面を白い船が進んでいく。

 その夜、マックスは、“松葉の間”へナルセスを訪ねた。
「そうか――」
 ナルセスはマックスの報告を、窓辺に立ちながら聞く。黒く染まった窓ガラスを、僅かに雨が叩いていた。
「出会ってしまったか……」
 そして、一つ溜め息を落とす。
「すまない」
 マックスは頭を下げる。
「あいつがまた悪い癖を出さないうちに、すぐにハクテ城へ連れて行く」
「そんな事は、もうどうでもいい」
 ナルセスは自嘲気味に言った。
「は? だってお前が言ったから……」
 マックスは面喰ってぽかんとする。
「お前には分からんかもしれんが……自分に自信がある者は、可能性に眼が眩むものだ」
 ナルセスは苦々しい声で言う。マックスは首を捻って、言葉の意味を考え込む。
「そうか、出会ってしまったか……」
――あの女は、どんな夢を見るのだろうか……


【神聖紀8月中旬、オルレラン】
 オルレラン城は、オルレラン湾に木の葉の形をした小さな半島の標高100mほど小山の上に築かれている。
 ワ国の築城技術を取り入れた最初の城と言われて、山頂部には荘厳な天守がそびえ立つ。そこから尾根や斜面にそってたくさんの曲輪が重なる旧来の山城の形式で、合理的に曲輪を配する近代的な城郭と比べれば時代遅れの印象を与える。これは守りの意識が薄かった事もあるが、大軍を収容でき、また、いざという時には少数で守る事ができる利点も理由の一つであろう。
 しかし、天守などの大規模な改修は数度行われている。それまでの実用性を廃して、装飾性を重んじた天守に建て替え、さらに、城下町から天守まで見通せる、真っ直ぐで広い大手道を造るなど、華麗な見せる城へと生まれ変わっていた。
 カテリーナ・ティアナ・ラ・サイアは、この城の中、北西の尾根にある曲輪にいた。通称サイア殿と呼ばれ、テラスからはオルレラン湾が一望できた。
「それでは、ディアン殿が援軍に?」
「はい」
 カレンはカフカからエスピノザについての報告を聞いていた。
「初戦で魔物を倒され、ナバール軍は一旦退いたそうです」
「そうですか。それではミカエラ様もお喜びでしょう」
 カレンは微笑むと、紅茶を口に運ぶ。と、開けた窓から涼しい風が吹き込んで、カレンの三つ編みの髪を揺らした。
 二人は湖を臨むテラスにいた。壁や天井は白で統一され、床は大理石で、家具やカーテンはパステルカラーで揃えてある。カレンのために新築された建物で、何もかもが真新しかった。
「しかし、戦いはこれからが本番」
 カフカの言葉に、カレンの動きが止まる。
「ナバール軍は一万を越える軍勢を整えて、再度の侵攻を計っているとか。それに対して、ルブランが二千の支援を決定したとか」
「それは……」
 それが吉報なのかどうか判断できず、カレンは戸惑いの表情を見せる。
「公爵は如何されるおつもりなのでしょう?」
「分かりません。と言うか何も発言されておりません。しかし、ルブランが戦力を割いたからと言って、すぐにルブランと開戦する事はありえません。援軍はたったの2千。然も、サリス帝国へのこだわりの強く、扱い難い兵ばかり。ルブラン公にすれば、一種の厄介払い。さらに、上手く行けば、サッザ城並びにエスピノザの軍勢を手に入れる事もできます。まさに一石二鳥でしょう」
 カフカはカレンに懇切丁寧な解説する。これは今日だけではない。事あるごとに、世界の情勢を説き、最新の情報を与え続けている。それはカレンの成長が、サイアの旧臣たちに希望の光を与えると考えていたからである。実際、カレンに接した人々は、その賢明さに感服し、「さすがサイア王の忘れ形見」とその存在にカリスマ性を見出す者さえ現れていた。
「どうすれば得か、誰もが頭を悩ませております。オルレランにとって、もっとも避けなければならない事は、オルレランの裏口を押さえられる事。ならば、何らかの介入を行うと考えられます。これは大きな戦いになります。新しい動きがこのセレーネで起きるでしょう」
 カフカはそこで僅かに体を進めた。
「そこで、カレン様の名をお貸しください」
「え?」
 大きな瞳で、不思議そうにカフカを見る。
「すでにサイア系兵士500を集めております。それを率いてエスピノザへ向かいます。各地の門閥貴族が集まる中で、サイアの存在を主張するのです」
「……でも」
 瞳が不安げに泳ぐ。
「一歩を踏み出さなければ、サイアの復興へ近付くことはありませんぞ」
「わ、分かりました。しかし、公爵が何と仰るか……」
「小官から、公爵閣下に上申致しましょう」
「そうして下さい」
 カレンが少し安堵した表情をすると、カフカは深く頭を下げた。

 オルレラン公メルキオルレは、天守下の本丸宮殿にいた。この本丸宮殿は、改築されて、今では聖サリス帝国ルミナリエ宮殿の中心部によく似ていた。
 黄金、絵画、彫刻など贅を尽くした後宮の一室に、腹心ノアイユ子爵が現れると、メルキオルレは美女達を下がらせる。
「どう思う?」
 メルキオルレは書状を手渡す。そこには、ナバール男爵が使っている魔術師は、カリハバールと同一である証拠が指摘してあり、そして、全エリーシアの共通の敵だと結論付けてある。
「少し突拍子もなく、本心から信じる者は少ないでしょう。しかし、やられてみますと、なかなか策士ですな」
「うぬ、これで支援を受けやすくなる。早速ルブランが援軍を決めた」
「聞いております」
 ノアイユ子爵は丁重に書状を戻す。
「このエスピノザの戦いは、これで難しくなりました。が、7:3でまだナバールでしょう。しかし、この際、ナバールを潰しておくのも手かと」
「うーむ」
 メルキオルレは唸る。指で髭を触る、グラスを置く、何気ない仕草の一つ一つに、重々しい威厳が発していた。
「カフカがサイア兵を出陣させたいと言ってきた」
「はい」
「オルレランとしては、深入りはしたくない。が、何の繋がりがないのも困る」
「はい」
 メルキオルレは渋い声を搾り出すようにゆっくりと話す。
「そこでカフカの案に乗る」
「はい」
「カレンの名で、サイア軍として出兵する。どの位がよいか?」
「ルブランが1個連隊2000なら、こちらは3000ほど出せばよいでしょう」
「うむ、準備しろ」
 メルキオルレが手を払うと、ノアイユ子爵は深々と礼をして下がっていく。


【エスピノザ・スピノザ橋】
 ベアトリックス・シャルロッテ・フォン・フリッシュは、スピノザ橋の周りを歩いていた。橋の周囲には、たくさんの見物人が出ていて、ちょっとした祭りのような騒ぎである。数人の兵士が整理に躍起になっていた。
 クリーム色の髪を後ろで束ねて、グレー系のジャケットとパンツを巧みに着こなしている。一見して、如何にも仕事が出来る女性という雰囲気だが、よく顔を覗き見れば、厚めの唇が色気を、きつめの目が情熱を、そして、すっきりとした顎が妖艶さを醸し出して、大抵の男なら思わず『イイ女』だと呟いてしまうだろう。
 ベアトリックスは人々の列から少し離れて、川沿いを歩いて行く。
「どうすれば、石の塔がああいう事になる……」
 塔が崩れて、まるで溶岩が固まったような形状をしている。それを見て、ベアトリックスは思わず呟く。
「ここで、戦いの女神フレイアの化身、アフロディースが剣を振り上げた!」
 ふと、アフロディースの名を聞いて、ベアトリックスは視線を向ける。と、大きな木の下で、人形劇が行われていた。そこにたくさんの子供が集まって、真剣に魅入っている。
 ベアトリックスは引き寄せられるように近付いて行く。
 人形劇の演目は、アフロディースが戦女神フレイアの駕籠を受けて、魔物を退治する様子を描いたもので、アフロディースが勝つと大喝采が起きた。
「すごい人気だな」
 ポツリと呟く。と、横にいた老婆が顔を見上げてきた。
「そりゃそうじゃ。ここの者は皆アフロディース様に感謝している。今もアフロディース様の居られる神殿には、すごい人が集まっておる」
「そうか」
 愛想無く答えて、その場を離れた。ベアトリックスは、アフロディースの名を聞いてから、彼女の事ばかり考えている。
――あのアフロディースが……ここにいる……
 ベアトリックスはアフロディースを知っていた。
 かつて、ロードレス神国とアルティガルド王国との親善試合で、何度か手合わせをしている。だが、何度試合をしても、その影すら捕える事ができず、敢えなく全敗に終わっていた。ライバルなどには程遠い、圧倒的な実力の開きがあった。剣士としての完璧な強さ、洗練した一つ一つの所作、一切の無駄を省いた動き、そして、その可憐な脚捌きは水面を飛ぶ白鳥を思わせた。そんなアフロディースに対して、憧れの感情すら抱く。
 アフロディースがただ強いだけの剣士であれば、良き先輩として目標にできたかもしれない。だが、アフロディースは何よりも美しかった。
 鍛え上げられた腹部が神秘的な程のくびれを作り出し、重力を拒絶したかのように全く垂れていない巨乳と官能的な膨らみを持つヒップと合わせて、超グラマラスなシルエットを描いていた。月や花でも恥ずかしくて隠れてしまいたくなるような美人とは、あのような女性を言うのだろう、と真実そう思った。
 ベアトリックスも、スレンダーな体に豊満な乳ぶさと、奇跡のようなスタイルをしている。かなりの自信があった、だが、アフロディースの前に立つと、臆する自分を感じる。憧れはすぐに嫉妬へと昇華していった。
 この出来事がきっかけで、ベアトリックスは剣士としての道を諦め、参謀としての道を選んでいく。
――魔物を倒して、今やフレイアとまで称えられている……追いついたと思ったのに、また差が開く……
 ベアトリックスの心の奥に、澱んだ苦い感情が過ぎった。


【スピノザ城館】
 茜の間は、ディアン義勇軍の執務室となった。殺風景だった室内も、資料が山のように積み上げられて雑然としている。その間をナルセスとその部下達は忙しく歩き回っていた。
 スピノザ伯爵家の守備隊などを解体し、領内から徴集した兵と合わせて、ディアン義勇軍の下で再編制する。各地にある物資などを整理して、ディアン義勇軍が管理する。などなど、ナルセス主導の元、戦争の準備が進められていた。
 これに、ミカエラは抗議する。スピノザ伯爵家の私財を勝手に動かすな。施設などを使用する場合には、フリオの許可を取る。領内への通達はフリオの名で行う。他国への親書には、フリオの署名を併記する。など、気になる事には透かさず口を挟んだ。
 ミカエラが目を光らせる中、その横で、フリオは居心地悪そうに座っている。
「それでは時間がかかる。今は緊急時です」
「組織には秩序と手続きが必要です。箍を緩めれば、単なる烏合の衆になってしまう。これには前例があり、シャルル2世陛下の時代――」
 ナルセス達はそれを苦々しく思いながらも、ミカエラの知識の前に反論を封じられていた。次第に、苛々した気分が態度に表れ、険悪な視線でミカエラを見る者も現れる。
「ふざけるな! 我々を盗賊だとでも言いたいのか。我々はサリス軍だ。ローズマリー様から、セレーネ半島の秩序を守るように指示を受けてここにいる。これ以上の言い掛かりはサリスへの屈辱と受け取るぞ」
 ついに、ミレーユ・ディートリッシュは、はち切れた怒りに声を荒げる。 
「サリス帝国では領内での自治が認められている。如何に義勇軍の方々でもそれは守って頂く」
 ミカエラは、聖騎士のミレーユに一歩も退かず、その目を睨み返した。と、ミレーユの側に次々と聖騎士たちが集まり、一触即発の空気が漂っていく。ナルセスはすぐに間に入って、聖騎士たちを治めようとするが、誰も引き下がらなかった。
 その時、ドアが開く。
「ワ国から船が着いた」
 発火寸前の部屋の中に、オーギュストが入ってくる。そして、場の雰囲気を全く無視して中央まで進み、ミカエラを側面に立った。
「パスカルを連れて行くぞ」
 ミカエラを見たまま、ナルセスに言う。ナルセスは「ああ」と頷き、パスカルに目で伝える。パスカルは素直に頷いて、オーギュストの後ろに進んだ。
「ルブランに続いて、オルレランからも援軍の承諾があった。もっと忙しくなるぞ」
 オーギュストは聖騎士たちを見る。
「カザルスはルブラン、ディートリッシュはオルレランを担当しろ。勝手な事をさせるな」
「はっ」
 名を呼ばれて、二人は短く返答する。ディアン義勇軍の面々には、ぴりぴりする緊張感が漲っていた。
 オーギュストはもう一度ミカエラを見た。
「あんたの弟は伯爵家を正式に継承していない。つまり無官だ。書状、命令書に無官の者の名を載せる必要はない。また、後見人が無官だった事もない。すなわち、後見人は叔父のスピノザ男爵以外存在しない。これはアレクサンドル3世、4世の故事に倣ったものだ。以後、ローズマリー様の代理たる軍監の権限で、あんたの会議への立ち入りを禁じる。拒めば、サリスへの反逆として、直ちにこの首を打ち取る」
 オーギュストは持っていた書状で、ミカエラの首を軽く叩く。一瞬、ミカエラは身体を固くした。
「これも先例はある。挙げようか?」
 そう言って、オーギュストは笑う。それにミカエラは沈黙した。
「以上だ」
 オーギュストは部屋を出て行く。と、一斉に全員が、長い息を吐き出す。
「すげぇー、あの姉上を黙らせた」
 そんな中、フリオは呆然と呟く。


 アフロディースが居るらしい神殿を遠くから眺めて、ベアトリックスはスピノザ城館を訪ねた。事前に知らせてはいなかったが、老執事に名前を告げると、聞き覚えがあるらしく、すんなりと取り次いでもらえた。
「よく訪ねてくれました」
 間もなく、ミカエラは玄関ホールまで出て来て、心から再会を喜んだ。そして、“山吹の間”へと案内した。
「どうでした、アーカスは?」
「たいへんよ。まさに乱世ね」
「ここもそうよ」
 ミカエラは苦笑する。
「でも、初戦は勝ったのでしょ? さっき見てきたわ。すごい戦いだったようね」
「そうらしいわ」
 ミカエラは素っ気無く答えて、紅茶を飲む。そこで少し顔色が変わった。
「ここに来たのは、軍監のディーンを調査する為でしょ?」
「はっきり言うわね」
 今度は、ベアトリックスが苦笑する。
「私も混乱しているの。情報は出すわ。そちらも少し分けてくれない」
 会話の軽快さに、ベアトリックスは心地好さを感じる。
「いいわ。本当は違反なんだけど」
 ベアトリックスは小さく笑う。それを受けてミカエラも、くすっと微笑む。それを最後に、二人は真剣な表情となった。
「初め、彼は複数存在するのではないか、と私達は考えたわ。おかしいでしょ。でも、魔術、剣術、戦術どれをとっても超一流よ。ちょっと信じられないでしょ。そんな男が今まで無名なんて」
「そうね。ディアン軍を仕切っているのも彼。皆彼に報告に行くし、決断を求めている。これは中に入らないと分からない空気ね」
「それで」
 返事した声には、物足りなさが含まれている。
 ミカエラは話し続ける。ルブランへ送った赤絵の白磁の事、叔父の態度、義勇軍メンバーの人物鑑定、ワ国から届く連弩という武器など、見聞きした事、感じた事などを細かく説明した。
「そう」
「それから、アフロディースが勝った事になっているけど、幾つかの証言から、彼に間違いないわ」
「……そう」
 ベアトリックスは必死に動揺を隠して、平静を装う。
「それで何が訊きたい?」
 ミカエラは口を閉ざして、再び紅茶を飲む。それを、情報を出し終えた、とベアトリックスは察した。そして、ティーカップの中の水面を見ながら、さり気無く訊く。
「どうして、彼は戦うの?」
 ミカエラはまず最も初歩的な疑問から訊いた。
「口外しているのは、カリハバールの魔術団に部隊を全滅されたから」
「カリハバールが敵と言うなら、サリスと組むのは得策じゃないわ。オルレラン、アルティガルドを手助けした方が早い」
「そうね。ディアン義勇軍の創設メンバー自体、カテリーナ・ティアナ・ラ・サイアの逃亡を助けるためのチームだし」
「そうなの!?」
「そうなのよ――」
 唐突に、ベアトリックスは含みのある笑みをする。そして、四方に視線を送ると、テーブルの上に身体を乗り出して、ミカエラを指で呼ぶ。それに応じて、ミカエラが顔と近づけると、ベアトリックスは小声で囁いた。
「ここだけの話、サリスの皇女が抱き込んだらしいわ」
「え? それって……」
「身体を張ったみたいね。皇女なんてお飾りのようなものだと思っていたけど、なかなかやるわよね」
 井戸端会議する町娘のように、ベアトリックスは呟く。
「そう……」
「それで、サイアのアベールが現れたでしょ。で、別れたらしいわよ」
 ゴシップを嘲笑するように口もとが弛む。
 と、ミカエラは立ち上がった。そして、白いレースのカーテンが揺らぐ窓辺に立つ。金色の髪が、夏の陽射しに、まるで宝石のように輝いている。普段着の白いシャツからは、白く細い腕がすらりと伸びていた。
「軍人の貴方から言って、スピノザ家はどう?」
「正直言って厳しいわね。狼を追い払うのに、虎や獅子を家に入れたようなもの。どうなるかは……分からないわ」
「そう……」
 ミカエラは辛そうに細く整った眉を折り曲げる。そこに前髪が垂れ落ち、それを白磁のような指で払う。と、瞳がうっすらと潤んで、綺麗に伸びた鼻筋から曇った吐息がもれていく。
 思わず、ベアトリックスの胸が高鳴った。そして、隣に立つと、親しげに肩に手を乗せる。そして、上から輝く髪に優しく口づけをした。(10センチほど背が高い)
「大丈夫、もしもの時は、私が守ってあげる……」
 そう言って、自然に抱き締めて、今度は細く弱々しい首を撫でて、額、頬へと口づけをしていく。
「ゆるして……」
 と、ミカエラがベアトリックスの腕を振り払って、背を向ける。
「どうしたの、わたしはただ……」
「あれは過ちだったのよ……」
 そう言って、ミカエラは数歩進んで、ベアトリックスと距離を作る。
「そう……」
 ベアトリックスは寂しげに呟くと、少し不機嫌そうに退席の言葉を述べた。


【スピノザ神殿】

……
………
 アフロディースは夢を見ていた。
「……あれ?……ここは?……ああ……またここか……」
 頭上に、大きな赤い月が輝いている。その下には水が薄く広がり、アフロディースを中心に月の明かりが丸く当たっている。
 アフロディースは剣を構えた。
「前回のようにはいかんぞ」
 闇の縁から、男が出てきた。いつもの男だ。口は裂け、筋肉が盛り上がり、肩や膝からは刺が突き出て、背中からは無数の触手が飛び出ている。
「ヴォオォォ!!」
 男は吼えた。そして、無数の触手を爆音とともに放つ。
 アフロディースはそれらを剣で薙ぎ払っていく。だが、斬っても斬っても、触手の数は増える一方で、次第に対応し切れなくなっていった。
「また増えている。……このままじゃきりがない」
 触手は毎夜ごと増えていた。そして、一本一本もしなやかに強靭となっている。
「こいつどんどん強くなっている。それなら――」
 唇をきっと結ぶと、精神を集中させる。そして、一気に呪文を唱えた。
「絶対魔法“重力呪縛”」
 足元から魔法陣が広がる。だが、一向に触手の動きは遅くならない。
「どうして……呪文は完璧な筈……」
 焦りで、剣を持つ手が汗で濡れる。
「何が足りないのだ……」
 焦燥感に胸が掻き毟られる。
「ああーっ!」
 と、ついに一本が左脚に巻きつく。
「くっ!」
 触手に引きずられて、バランスを崩し、水面に倒れる。
「うぅ…くっ!」
 そして、手首も捕らわれた。必死に振り解こうとするが、触手は揺るぎもしない。
「はぁ……っ!」
 首にも巻きつく。ついには全身に絡みつき、そして、きつく締め付けてくる。
「うぐぅ……」
 触手が身体に食い込み、苦しげにうめく。アフロディースは必死に身体を揺すった。だが水面に波紋が広がるばかりで、有効的な抵抗にはなっていない。水紋は次々に闇の中に消えていく。その波を越えて、男が一歩一歩ゆっくりと近付いて来た。
「はぁっ!」
 最後の力で、剣を突き出す。だが、男に鋼のような体に弾かれて、簡単に折れてしまう。
「ダメだ……もっともっと強い剣じゃないと……欲しい…もっと力が欲しい……じゃないと…このままじゃ勝てない……負けたくない……」
 声を震わせて叫ぶ。
 と、男が覆い被さってくる。
「ああ……また……」
 いつの間にか、瞳が涙で滲んでいた。声も弱々しくなっている。
「また……」
 触手に引っ張られて、長い脚が持ち上げられて、左右に開かれる。男はそこに顔を沈めた。そして、長い舌をくねくねと伸ばして、アヌスから恥毛までをねっとりと舐め上げていく。
「ひぃ」
 同時に、大きて柔らかい胸を、触手が絞る。
 アフロディースは嫌がるように身体を震わす。だが、美乳からツンと突き出た乳首が、淫らに興奮している事を、如実に晒していた。
「ひぃぃっ! こ、こんなの……違う……これは夢だから……相手が淫獣だから……ああン」
 赤く染まった顔から喘ぎがもれる。
「ひぃっ…あい…い…くっ…」
 太腿の裏を肩に担ぎ、腰をしっかりと抱いて、男は秘列に貯まる淫蜜を啜った。
 アフロディースは男の顔からだらしなく逆さまにぶら下がっている。そして、髪も両手も垂れ下がり、男の舌の動きに合わせて、左右に揺れしている。
「い…く…、ああっ、イっちゃうう…ひ…い…」
 裸身をガクガクと痙攣させて、絶頂の大波に攫われていく。
「あ、いっちゃう、…駄目ぇ、ああっ、また…また来る…また…ひいぃ!」
 そして、愛液を勢いよく吹き上げた。
………
……

 アフロディースは静かに眼を開く。
「はっ、はっ、はっ、はっ…」
 透き通るような美貌が、汗に濡れ、銀色の前髪がそこに張り付いている。口の中は渇き、赤い唇からは、荒い息を絶え間無く吐き出されていた。
「夢…を見た……ような気がする……」
 瞳を開いた後も、しばらくぼんやりとしていたアフロディースが、ポツリと呟く。
 最近は夢を全く覚えていない。疲れている所為なのか、眠りが深いのか、よく分からないが、それほど気にする事はない、とは思うのだが。以前は何度も魔獣人を斬り倒す夢を見ていた。夢の中では、戦うたびに強くなる魔獣人に、少しずつギリギリの勝利を得ていた。あの山中での魔獣人との戦いが余程衝撃的だったのあろう、と目覚めて夢を振り返った。だが、ある夜を境に、全く魔獣人を夢に見なくなる。神装障壁を習得した事で、魔獣人に確実に勝つ自信がついたからだろう、と自分で判断していた。
「ふぅ」
 大きく息を吐き出すと、アフロディースはベッドから起き上がった。すらりとした長身はよく鍛えられている。腹部を始め全体的に無駄な贅肉は全くない。だが、胸や尻は女性的に大胆に隆起し、括れた腰へと絶対的な曲線美を描き出している。 
 白い下着姿が小さな窓から差し込んだ光に、つやつやと眩い光沢を放っていた。上はぴったりと身体に密着したタンクトップで、立ち上がった衝撃で、大きな胸が上下に弾む。汗で胸元が濡れていて、薄桜色の乳首が尖っているのが透けて見えていた。
 肩には、ルーン文字の刻まれた紙が貼られていた。自己治癒力を活性化させる作用があり、もう痛みもない。
 下はカットの鋭いショーツだけを穿く。そこから、圧倒的に美を主張する長い脚が伸びていた。
「すごい汗……」
 アフロディース自分の身体を見渡す。
「着替えなくちゃ……」
 ショーツは色が変わるほど水分を含み、溢れ出した分は、太腿を伝って足首まで続いている。
「ちょっと赤いかな」
 洗面室に入って、顔を洗い、鏡で顔を見た。頬は上気して、やや朱に染まっている。頭も霧がかかったようで重い。ただ、以前気になっていた眉間の縦皺が消えて、柔らかな表情をしているような、そんな気がした。
――近頃、朝の目覚めが悪く、気だるいような。気が弛んでいるのだろうか?
 自問してみる。ロードレス神国から持ち出された合成獣は死滅した。だが、主犯のアキレウスは取り逃がしてしまった。いや、正確には何もしていない。アキレウスにも敗れたし、合成獣には一歩も足が動かなかった。それを思うと悔しく、情けない気分に落ちていく。
「それにしても、またしても、あのディーンか!」
 ふと、オーギュストの憎い顔が浮かんだ。と、下半身に言いようのない熱い疼きが生じる。
「な、なに?」
 それに戸惑い、言い知れぬ恐怖を感じだ。だが、すぐに気持ちを入れ替えて、「任務は終わっていない」と強く頬を叩いた。
 その時、ドアが叩かれた。
「輔祭様、皆が集まっております。ご準備を」
 ロードレス神国の絶対神教(ジ・オ教)では、首長たる総大主教の下に枢機卿が置かれ、次に上級神職者として大主教、主教、司祭、輔祭などがある。平時においては、アフロディースも輔祭の職位を持っていた。
 今、アフロディースはエスピノザにある小さな神殿にいた。回廊で四角囲み、北の建物に神々の像が並んでいる。南に門、西に倉庫、東には先程のアフロディースの部屋など、神職者の生活の場があった。
 アフロディースが黒い神官服に着替えて出てくると、若い神官が手紙を差し出した。
「サリス帝国軍の方とか」
「そうか……」
 アフロディースは無表情に受け取る。
『二人の部下の遺骸は見つからない。おそらく熱で溶けたのだろう――』
 手紙はぶっきらぼうで、用件だけしか書いてない。
『追伸、貴重な、持ち出し禁止で、門外不出の、禁断の、一子相伝の魔術書があります。欲しいなら、俺に協力しろ。命懸けで、一心不乱に、粉骨砕身、森羅万象、二極一対、男と女……』
 途中まで読んで、アフロディースは乱雑に握り潰す。
「よろしいのですか? 軍監とか何とか、偉そうな事言っていましたよ」
「非公式な存在だ」
 そう言い捨てて、歩き出す。
 拝殿にアフロディースが姿を現すと、どっと歓声が上がった。人々は彼女に感謝の言葉を述べている。その声を聞く度に心が痛んだ。すぐに否定したかったが、噂が広まり過ぎていて、すでにそのタイミングを逸している。
――私にディーンを越える力をお与え下さい!
 背中に集中する人々の視線に、後ろめたさを感じなら、アフロディースは真摯に祈りを捧げた。


【スピノザ港】
 ベアトリックスは港を歩いている。何気なく歩いているようで、港の人や物の動きに細心の注意を払っていた。と、ワ国の船から、大量の荷が降ろされている事に気付く。
「あれが、連弩か……」
 ベアトリックスは露天の品を物色する振りをして、ワ国船の動きをじっと観察する。
「うん、あれがディーン!」
 思わず眼光が鋭くなった。

 オーギュストはアラン・ド・パスカルと連弩を挟んで立っている。
「使い方は今ので分かったが……確か過去の会戦では役に立たなかったと聞いている」
 パスカルは連弩を上から下から覗き込んで、唸り声を長く引っ張る。
「以前の物より、操作性、連射性、耐久性など向上している。運用次第で、勝敗を左右する存在になるだろう。自信がないなら、他をあたるが……」
 オーギュストは下から探るように覗き込む。パスカルはそれを目を細くして見返した。
「分かった。使いこなして見せよう」
「それでこそアラン・ド・パスカルだ」
 オーギュストはパスカルの肩を気さくに叩く。
「ディアン義勇軍の中で、一番器用なのはお前だ。お前しか任せられない。断れたら、湖に捨てようと思っていた」
「よく言う」
 思わず、パスカルは吹き出す。そして、二人は笑い合った。
 と、急にオーギュストの顔が真顔に戻る。
「あ、やばい皆藤だ。後は打ち合わせ通りに」
 そう言って、オーギュストは独り駆け出して行く。
 丁度、その方向にベアトリックスがいた。
――見つかった!
 オーギュストが急激に迫って来るのを見て、ベアトリックスは血潮が逆流する思いがした。
――だが、何故!?
 魂を奪われたように呆然と立ち尽くしていると、オーギュストは何事もなく脇をすり抜けて、人込みに消えて行った。でも、一度凍りついた心臓は、なかなか元に戻らない。しばらく氷の柱となって、賑やかな港の中で独り立ち続けた。
「あれ、ここにディーン殿がいたでしょ?」
 パスカルに駆け寄って、皆藤が荒い息で訊く。
「いや、知らんな」
「でも、あっちの方へ走って人を見ましたよ。あの禍々[まがまが]しさディーン殿です」
 言って、オーギュストが走り去った方を指差す。
「そんな事言……あ、イイ女だなぁ~」
「お、本当に」
 今度はパスカルがベアトリックスを指差す。不覚にも、皆藤もそれに魅入ってしまった。
「しまった!」 それで完全にオーギュストを見失ってしまう。
「貴方、ディアン義勇軍の方ですよね?」
「ああ」
「代金について話がしたいのですが」
「それは本国に言ってくれ。現場には分からん」
「ナントのサリス政権じゃ、納品されてないものまでは知らない、と突っぱねているのですよ」
「だから、俺には分からん」
「そんな。それじゃこちらが困るのですよ。ディーン殿は何処行ってもすぐいなくなるし、何方か分かる方を出して下さい」
 皆藤はパスカルに詰め寄る。
「うちの会計担当なら、ほらあそこに仲間と酒を飲んでいる」
 パスカルはオープンカフェを目で指す。
 すぐさま、「早く言え」と言い残して、皆藤はまっしぐらに駆けた。
「私は白石屋の主任です。代金についてなんですが……」
 そう言って、男の顔を見た時、思わずたじろぐ。
「あ、あの……」
「ぬ?」
 リューフ・クワントが真っ赤に酔った顔で振り返った。そして、皆藤を見上げると、凄味のある目で見据える。
「な、何でもありません……(こ、殺される)」
 そのまま泣きながら、皆藤は港の果てへと走り去って行った。
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Date:2011/01/16
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