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第二十二章 黄塵万丈

第22章 黄塵万丈


【1224年6月中旬ペラギア】
 ヴェガ山脈の北西に広がる、エデッサ平野は広大である。伝承によれば、かつてエリース湖から流れ出した大河(消えた大河)が、ここからドネール湾に注いでいたらしい。エリース湖の水量減少と、ヴェガ山脈の隆起によって大河は消え、跡にランス盆地と巨大なエデッサデルタを残した、と伝わる。消えた大河は実証された訳ではないが、確かに、一本の筋が湖から海へと繋がっている。そこに、グランカナル(大運河)は建設された。
 現在でも、エデッサ平野の水量は豊富である。ヴェガ山系から急峻に流れ落ちたエデッサ川の他、王都サイアを経由したヴィーナ川も、最後はこの地は至る。さらには、ランス盆地に降った雨も、地下水となって流れ込んでいるようだ。こうして、日々デルタは広がっている。
 しかし、人の入植は遅れていた。海から潮が逆流するために、土の塩分が高く、生産力が極めて低い所為である。
 デルタの扇の要に“ペラギア”がある。グランカナルのドネール湾側出口の街で、始まりは三角州に置かれた運河建設管理事務所だった。運河の運営が始まると、海船と湖船との荷の積み替えなどで、どっと人が沸いて、瞬く間に街は手狭になった。しかし、周囲を埋め立てる時間的、予算的余裕がなく、水上に筏[いかだ]を繋いで、急ごしらえの水上都市を誕生させた。街の発展が急激だったからか、しっかりした理念がなかった所為か、筏は無秩序に増殖して行く。そして、ジグソーパズルのような複雑な街となり、一風変わった風景が出来上がった。

 ブルサの戦い後、侵攻したカリハバール軍は、ここを兵站の拠点とした。海から草原から、物資が集まり、それを湖船に乗せて、ランスへと送る。まさに、カリハバール軍の生命線である。
 このペラギアを、バイエルライン中将麾下の第二軍が奪取した。より正確な表現をすれば、放棄された街を拾った、であろう。カリハバール軍は、バイエルラインの第二軍が迫ると、戦わずしてヴェガ山中へと逃げている。
 直ちに策敵部隊を南部のブルサ丘陵地帯へと放ったが、その探索の中で、新たな軍勢が発見させる。
「シェルメールの騎馬軍団です。ラーン部族の旗を掲げています」
 報告を聞いて、バイエルラインは冷静に情報部の資料を手に取った。
「アルサス・ラーンだな……」
 シェルメール草原の遊牧民は、無数の部族に分かれていた。それを一つにまとめつつあるのが、若干20歳のアルサス・ラーンである。ラーン一族は、美男美女の部族として知られ、彼もまたやや癖のある黄金の髪と、蒼氷色の瞳を持つ美丈夫である。だが、その天使を思わせる端正な顔からは、計り知れない、修羅の道を生きていた。
 情報部のファイルに、アルサスの個人名が登場するのは、彼が12歳の時からである。水場を巡るいざこざから、父、さらに、父祖と叔父達が殺された。その直後、たった一騎で十騎に挑んで、見事一族の仇を討つ。草原中が彼の話題で騒然となった。
 以後、戦場で彼の名が鳴り響かぬ事はない。数え切れぬ戦場を、自分の影だけを友として駆け抜けて行く。振り返ると、比類なき武勇が積み上がり、そして、名声は草原を飛び出ようとしていた。
 カリハバールの征東が始めると、セリム1世は真っ先にアルサスと会見した。一目見て、二人は互いを認め合う。夜を徹して酒を飲み交わして、武勇を、そして、未来を語り合った。それからは、カリハバール帝国軍に組して、シェルメール草原の統一を目指す。
 そのアルサスが今、約8千の兵力でペラギアに迫っている。
「ペラギアを守るために平地へ出陣するのは危険である。また篭城は愚の骨頂。山谷に誘い込もう」
 軍議で、バイエルラインが告げると、誰も異を唱えなかった。
「火攻めをされたら、一たまりもない」
 ペラギアの街は、川を堀としているだけで、硬い城壁を持たない。一旦、筏に火が点けば、足元までも失うであろう。
「これで勝てるなら、それは軍神である」
 そう笑い合うと約1万5千の軍勢がペラギアを出た。そして、エデッサ川の北に陣を張る。狙いは、アルサス軍を渡河させずに、戦況を膠着状態させる事にある。また、ランスでの戦いで、カリハバールが敗北を喫すれば、草原へ引き上げる事はまちがいなく、何も無理をする事もなかった。
 両軍はエデッサ川を挟んで対峙する。そこへ、ランスに布陣する総参謀長ケーニッヒから、「一万の軍勢を割いて、ランスを西から攻めよ」と命令が届く。敗戦による焦りが、文面に滲み出ていた。
「困った……」
 バイエルラインは唸る。自ら、長期戦を仕組んでおきながら、それを自分から崩さなければならない。だが、命令は絶対である。苦々しい思いで、エデッサ平野を見渡して、策を模索した。
「この緑一色の地平線も、潮の匂いの風も飽き飽きした……」
 思わず愚痴が零れる。日を追う毎に苛立ちは募ってくる。彼だけでなく、彼の部下も同様にストレスを溜め込んでいた。
「将軍、私に5千の兵をお貸しください」
 そう言ったのは、バイエルラインの副将ミュラーだった。
「どうする?」
「敵はあくまでも蛮族。それに対して正面から戦う必要はありません。策を用いるのです」
「策とは?」
 聞きながら、勿体振[モッタイぶ]った言い様に、やや不快感が込み上げる。
「この川の上流へ遡ると、馬で渡れる浅瀬があります。そこを夜陰に乗じて渡り、敵の背後に回りこみます」
「うーむ」
 バイエルラインは腕組みをして、目を閉じた。
 瞼の裏に、何通りかの未来予想が、瞬時に浮かび上がる。だが、ミュラーの最初の言葉“蛮族”が、想いの外、大きな面積を占めてしまう。思考の偏りを自覚しながらも、他の可能性を半ば放棄するように、強引に決断を下す。
「よし、行け」
 こうして、夜を待って、ミュラーは預かった5千とともに、密かに陣を脱け出した。そして、目的の浅瀬へと到着すると、月明かりを頼りに、渡河を始める。
「急げ!」
 気持ちが逸る。ついつい部下達を叱咤する声も、厳しくなっていた。
 ミュラーは、待ち切れず、本隊に先行して川を越えた。そして、全軍の渡河を、赤い月を睨みながら、苛々と待つ。その時、突然、どどっと大地が揺れた。
 地平線すれすれまで星が垂れ込める中、強風に煽られたように、もうもうと土煙が舞い上がっている。
「あははは、これは参った」
 数千の騎兵からなるアルサス軍が出現した。
 ミュラー軍は川を背後にして、正面から騎馬集団の攻撃を受ける。一見バラバラに見える騎馬の動きだが、付かず離れず、流動的に連携する。それは、個々のようでもあり、また巨大な塊のようでもあった。
 ミュラーは成す術もなく、ただ振り回された。瞬く間に、要所要所が分断されて、ついに、陣形は押し潰されてしまう。
 戦いは短い。
 ミュラーの首を取ると、騎馬軍団は黄塵万丈の中へと消えていく。
 夜が明けて、バイエルラインは臨戦体勢で、ミュラー軍の鬨[とき]の声を待っていた。しかし、川を流れ下る無数の死体で、ミュラー軍の敗北を知る。
 そしてこの時、アルサスの全軍は、元の陣に戻って、何食わぬ顔で対峙していた。一夜で戦場を往復する。まさに、騎馬軍団の真骨頂であろう。
「……くぅ」
 アルサスの笑い声が聞こえて来る。バイエルラインは歯が折れるのでは、と想えるほど強く食いしばった。その後、呪いのような呻[うめ]き搾り出す。
 バイエルラインは焦っていた。ここでミュラー軍の全滅を公表しては、全軍の士気は激減してしまう、何よりこの不手際を本国へ報告などできない。では、どうするか、青白い顔で自問する。
「兵力、物量で敵を圧倒する」
 答えは、更なる攻勢であった。
 アルティガルド王国軍は長弓を用いている。矢の射程距離は長く(約250m)、威力も強い。対して、シェルメール軍は馬上で扱い易い、短弓を使っている。速射には適していたが、飛距離は短い。
「敵の矢はこちらには届かない。思う存分叩きのめし、一気に川を押し渡るぞ」
 一方的に、アルティガルド軍の矢が、川を飛び越えていく。
 アルサス軍は陣形を乱して、川から遠ざかった。それを見て、バイエルラインは、重装備の紫紺騎士団へ突撃を命じた。その勇姿に、アルティガルド兵の誰もが、勝利への漠然とした自信を感じる。その時、思いもかけない事態が起きた。
「カリハバール船団です!」
 索敵担当の幕僚が絶叫する。
 エデッサ川には支流が多い。カリハバール船団は、その一つに潜んでいた。
「何処に隠れていた?」
 バイエルラインは愕然として、無意味な台詞を、吐き捨てるように言い放つ。その時、頭の中を稲妻が走って、バラバラだった点と点が繋がった。
――この船団が発見し難いように、ペラギアからヴェガ山中へ逃げたのか?
 一つの仮説を立ててみると、アルサスの出現も必然に見えてくる。
 この船団を指揮していたのは、皇太子バヤジットである。彼らは遠目から矢を放ち、近付いてからは、鉄球を振り回した。矢は馬を射抜き、鉄球が鎧の上から骨を砕いた。
 渡河の半ばで、側面攻撃を受けた。一時間あまりの戦闘で、反撃を予期していなかった第二軍は手痛い出血を被った。
 馬上から血の叫びが飛ぶ。
「怯むな! 総攻撃を続けろ! 屍の山を築こうとも必ずや陣を守れ!!」
 崩れかかる軍を、このバイエルラインの檄が支えた。
「来るぞ!!」
 末端神経の隅々まで行き渡る緊張感が、戦士の矜持を蘇らせる。
 第二軍は素早く自陣を固める。そして、岸に押し寄せ上陸を図る、バヤジット船団に対して、弓矢の無差別攻撃を開始する。
 狂ったように、長弓部隊から乱射される無数の矢が、川の上を乱舞する。その密度の高さは、戦史の残るほどで、その点バイエルラインの指揮能力の高さを伺わせた。
 バヤジット軍の兵が次々倒れ、船には火が上がる。
「今だ! 誇り高き戦士たちよ、飛び込め!」
 アルティガルドの紫紺騎士団が、再び川へと押し出していく。そして、一斉に、バヤジット船団に飛び掛かり、その縁に取り付く。
 船からは槍で突かれる。
 反撃を受けて、多くの騎士が、川の流れに飲み込まれた。それでも、一人が、折れた槍を背に残した壮絶な姿で、ついに船の上に這い上がる。そこを橋頭堡として、次々と騎士が乗り込んでいく。こうして、一隻を占拠して、また次の船へと乗り移る。壮絶な奪い合いが続く。
「勝鬨を上げよ!」
 優勢に、バイエルラインは剣を高く掲げる。掲げながらも、不思議な違和感に包まれていた。
――アルサスがいない……
 バヤジット船団を、対岸から支援する動きがない。ぞっとする胸騒ぎがする。若い幕僚を呼び、アルサス陣の奥を探るように指示を出した。その時である。後方で、どどっと土煙が立ち上った。
「な、何事か?」
 バイエルラインが振り返ると、揺れる煙幕の中に、黄金の髪を靡かせた豪奢な男の姿が見えた。
「あれが、アルサス・ラーンか!?」
「バイエルラインよ、たわいも無い」
 唖然とするバイエルラインに、アルサスが冷笑を送る。
 アルサスの騎馬軍団は、戦闘が始まると、密かに陣を脱け出していた。そして、上流の浅瀬から川を渡って、バイエルラインの背後に廻り込む。騎馬軍団の、その卓越した機動力を、巧みに使いこなした用兵であろう。
「反転しろ! 後方に備えよ!」
 さすがに、鍛え上げ抜かれたアルティガルドの将兵である。バイエルラインの一声のもと、素早く後方に防衛線を構築し、アルサスに後背を突く機会を与えなかった。
「騎馬の突撃は強力だ。だが、防御は極めて弱い。包囲してしまえば物の数ではない」
 バイエルラインが強気に言う。それに部下達は、不安と疑問を振り払うように大きく頷き、全面的な肯定を示す。
「アルサスよ、歴史に名を残すのはお前ではない、この私だ。」
 赤い血に、むせ返る死の匂いに、酔ってしまったかのように、バイエルラインが叫ぶ。そして、両翼を伸ばして、アルサス軍を包み込もうとした。
 一方、アルサス軍は一切構わず、密集隊形のまま突撃を敢行する。
「我々に小賢しい策は要らん。命ある限り突進を繰り返せ!!」
 アルサス軍はすべてが騎兵である。そのすべてが土煙を上げて突進する姿は、壮大であり、かつ、密集しているにもかかわらず、全く衝突しない、その手綱捌きは、爽快ですらあった。
 アルサス軍の攻撃は単純、だが、効果的でもある。軽鎧で武装した騎馬兵は猛スピードで突進すると、矢を射掛ける。そして、槍衾に出来た傷に、剣で斬り込む。討たれると、その後列の騎馬兵がまた仕掛けてくる。死をも厭わぬ勇戦に、アルティガルド軍は度肝を抜かれた。
 だが、繰り返される波状攻撃にも何とか耐え、半円の焦点に、アルサス軍を捉える。そして、バイエルライン得意の一点集中攻撃が炸裂、一瞬でアルサス軍の騎兵を削った。
 しかし、戦闘開始から、三時間が経過しようとした時、正確無比だったアルティガルド兵の攻撃が外れるようになった。煌々と燃え上がる炎ほど、燃え尽きのは早いものである。緊迫した戦闘に耐え続けていた、第二軍将兵の集中力が、一斉に途切れようとしている。高い昂揚は、高い集中力と体力の一時的な増大を生むが、消耗も激しい。一旦切れた緊張の糸は、もはや元には戻らない。
 アルサス軍のボルド分隊が、ついに第二軍の防衛ラインを突破、第二軍の分断に成功する。これに、息を吹き返したバヤジット軍が後方から加わると、もはやバイエルラインに勝ち目は残っていなかった。くしの歯が抜け落ちるように、各所に綻ぶが生じて、連鎖反応のように全軍が崩壊していく。
「将軍、もはや戦えません……」
 幕僚が叫ぶ。
「黙れ! このまま帰れるかぁ!! 陛下に何と報告する。お前達に、武人としての矜持はないのか!?」
 一度感情を爆発された所為で、明晰な頭脳に落ち着きを取り戻す。
 下流を見る。ペラギアの街が見えた。
――あれでは、全滅をただ待つだけだ……
 上流を見る。昨夜ミュラーが戦死した浅瀬がある。
――もう一度、渡河する体力はない……
 さらに目を凝らす。そして、唇を固く結んだ。
「運河沿いに東へ、ランスを目指すぞ!」
 下知を受けて、アルティガルド兵が、ぞくぞくと戦線を離脱していく。
 こうして、ペラギアの戦いは終わるが、これは更なる血戦への始まりに過ぎない。
 バヤジットとアルサスは合流を果たすと、固く手を結んで、互いの武勇を称え合った。それから、一日、バイエルライン軍の退却を見守り、慎重にその動向を調査する。そして、偽装の敗走ではない、と確信すると、全軍を中原へと押し出した。


【悪水峠のヴィルヘルム本陣】
 夜明け前、ヴィルヘルム1世は馬の嘶きと、誰何する衛兵の叫び声で目を覚ました。朝になれば、騒がしい、と叱り付けてやらねば、と想いつつ、再び目を閉じる。
「陛下」
 と、廊下から、小姓の刀根小次郎の声がした。その声には、緊張感がある。
「何事か?」
 咄嗟に上体を起こして、ベッド傍の剣に手を伸ばした。
「第二軍より、早馬です。緊張事態と想われます」
「……すぐ支度する。待て」
 ふと、不吉な予感が過ぎった。だが、戦場とはこういうものなのだろう、と自分に言い聞かせて、急ぎ衣服をつける。
「それは……」
 謁見の間に出ると、跪く伝令の姿に息を呑んだ。そして、その第一声に我が耳を疑い、次に、みるみる顔から血の気が引く。
「……もう一度、申せ」
「バイエルライン中将麾下の第二軍は、ペラギアで敗退。カリハバールの軍勢が中原に流れ込みました」
「信じられん……」
 これは近臣の無意識の呟きである。
「カリハバールの全軍が、ランス盆地に集結したのではなかったのか?」
「敵本国より、皇太子バヤジットの増援があり、また、シュルメールより、アルサス・ラーンの参戦あり!」
 第二軍は運河沿いにランスへと敗走、と伝令は締め括る。その背には、3本の矢が突き刺さったままで、声を発するたびに、血が床に滴り落ちていく。もう直に死ぬであろう男の言葉に、偽りの気配は微塵もない。
「……」
 ヴィルヘルム1世は、玉座周囲の顔を見た。誰もまともに視線を合わさない。それぞれに顔を寄せ合い、互いの考えを対{つきあ}わせている。その当惑した顔から、結論に至るには、もう少し時間を必要としている事が分かる。何とも頼りない。
――考えずとも分かろう!
 感情の熱が高まる。脳が痺れて、今にも発狂しそうだった。その時、「王たる者、見苦しい姿を見せてはいけませんぞ」と言う声が、頭にこだました。王に成り立ての頃、散々聞いた宰相ベレンホルストの小言である。言った方も、言われた方も、今よりも多少若かった。
――余が取り乱してどうする……
 何とか、ヴィルヘルム1世は自分を抑える。その瞬間に、「次に何を成すか?」ともう一人の自分が静かに問い掛けて来た。
「……陛下」
 近臣がきょとんとした顔をして、思わず呟いていた。
 無意識のうちに、ヴィルヘルム1世は、玉座から立ち、その前を左右に歩き始めている。
――狙いはカッシーか……否……
 それから三往復、長い沈黙が続いた。室内にはただ、ヴィルヘルム1世の人差指で玉座の肘掛をとんとんと叩く音だけが響く。
 そして、突然冷水を浴びせられたように、凝然と立ち竦んだ。
――奴等の狙いは…余の命!!
 ヴィルヘルム1世の頭の中では、震え上がるような恐怖が、電光のように瞬く。そして、蒼ざめた唇をブルブルと震わせながら、ゆっくりと開く。
「逃げるぞ!」
 十分な間の後、血の逆流するような恐々とした声を解き放つ。そう宣言した後は、もう何も考えなかった。何一つ持たず、ただ馬に跨ると、一目散に駆け出して行く。
「ええい、前に出すぎたわ!!」

 谷川沿いに山道を、転がるように駆け降りた。東から朝陽が差し、川の流れが緩やかになった頃、小さな祠を見つけて、そこで馬を降りた。馬は勝手に水を飲み始め、その間、不覚にも地面に座り込んでしまう。
 セリム1世、何と危険な男だろうか……。
 自らを囮にして、アルティガルドの主力をランス盆地に誘い込んだ。そして、西のペラギアを破って、手薄になった後背を襲う。成功すれば、悪水峠を前後から攻められて、まちがいなく戦死していた事だろう。思えば、旧サリス帝国のカール5世も、不用意に戦場に吊り出されて、無意味に死んだ。何もかもが仕組まれていたのか、と怯え、改めて背筋に戦慄が走る。
「いや違う!」
 すぐに、覆い尽くそうとする巨大な影を、頭を振って否定した。敵は人であり、鬼神ではないのだ、と怯え切った心に言い聞かせる。
「そんな事はありえない。ありえる筈がない……ありえてたまるかッ!」
 悪水峠に出陣したのは、全くの自分の意志であった。誰に予期できるものではない。
「そうだ! そうなのだ!」
 すっくと立ち上がる。笑う膝を二度ほど叩いた。
 カリハバール軍は、後方拠点であるカッシーに、殺到する気だったのだろう。カッシーの全ての軍勢を破る必要などない。王を殺し、備蓄された兵糧を焼き払う。何と鮮やかな手口であろうか。実現すれば、覇王の野望と共に、アルティガルド軍は空中分解したことであろう。
 だが現実に、王と兵糧は別にあり、単純な一挙両得の方程式は崩れた。カッシーには多くの陣城があり、気骨のある武将の一人二人は城を守り抜いている事だろう。そして、セリアには無傷の2万の軍勢が在る。退却してきた軍勢が合わされば、今度は逆に、カリハバール軍を包囲する事ができる。さらに、セリム1世は最後の切札を明かしたであろうから、もはや奇策に怯える必要もない。
 さらさらと水面に反射した光が、目の前で輝く。
「だが、まだ窮地を脱した訳ではない……」
 呟いて頭を上げると、後ろから、近衛軍百騎が追いついて来た。
 ヴィルヘルム1世は、王らしく、4頭立ての馬車に乗り換える。
「急ぐぞ、カッシーが健在なうちに、態勢を立て直すぞ!」

 悪水峠とカッシーのほぼ中間地点まで、無事に進んだ。途中で、近衛軍の多くが追い付き、護衛の数は増えた。心強さに、色々考える余裕も生まれる。
 もう少し悪水峠の陣城で粘った方が良かったのではないか、と思い悩むようになった。ネズミのように逃げ惑う、この状況{ありさま}が、余りにも不様で、如何にも腹立たしい。苛立ちが苛立ちを呼び、夕食の調達に出た兵の戻りの遅さにも、罵声を浴びせる。その時、悪水峠に煙が上っている事に気付く。想ったよりも、カリハバール軍の動き早いようだった。あそこに残っていたら、と思うと、覚えず慄然とする。
 その直後、護衛の兵が、「シェルメール兵です」と声を絞り出した。
 慌てて出立したが、間もなく、十数騎の集団に襲われた。
 殿を残して、逃げる。それからは、度々追撃を受けるようになった。馬車を捨てて、馬に跨り、身を隠すために森の中に入った。この頃になると、怒りなど、とっとと何処かへ消えていた。木々のざわめきに手足がすくみ、影の揺らめきに首が縮まる。ただ命だけが惜しかった。
 一晩中、森の中をさまよった。
 疲れ果てたヴィルヘルム1世が、うとうとしていると、不意に体が宙に浮く。気が付くと、馬が倒れて、地面に叩きつけられていた。周りには、もう小姓を含めた30騎ほどしか残っていない。王としての威厳を守ろうと、咄嗟に起き上がるが、足に激痛が走った。
――もう駄目かもしれない……
 ついに、弱音が心を侵食した。
 朝になって森を抜けた。カッシーまでもう後僅かである。と、小姓が何やら大声を出して指を差す。カッシーの方角に、何筋もの黒煙が立ち昇っている。その意味を、理解するのに、数秒の時間を必要とした。
 その時、背後から絶叫が聞こえた。
 振り返ると、シェルメール騎馬隊の一個小隊が、独特の雄叫びを上げながら、迫っていた。馬を失った近衛騎士が、剣を振り上げたが、瞬く間に弓矢の餌食となる。
 ヴィルヘルム1世は、必死に馬腹を蹴った。が、前方にも新たな集団が出現した。もはやこれまで、と諦めかける時、黄金の鎧をまとった一騎が、シュメール騎馬隊へと突進するのが見えた。
「速い!」
 銀色の鬣を靡かせる駿馬は、自身の影すらも抜き去るのでは、と思えるほど速い。それにシェルメール騎馬隊も一瞬声を失うが、「奪えぇ」と昂奮の雄叫びを上げた。
 短弓の矢が飛ぶ。
 槍を右に一旋して、次に左で一旋して、全て叩き落す。驚くべきはその間も、全く速度を落とさない事であろう。まさに一陣の風である。
 シェルメール騎馬隊が、戸惑っている間に間合いが詰った。弓を捨てて、剣を抜く。
 黄金の鎧武者と銀馬は、躊躇なく、敵中に踊り込む。
 騎馬集団と一騎がすれ違い、五つの首が舞った。
 黄金の鎧武者は、太腿で、きつく馬の腹を絞める。人馬の一体感はさらに増した。元々一体の魔獣のように、右に左に跳ねて、槍が縦横無尽に宙を切り裂く。
 煌めく閃光の後に、血の飛沫が吹き上がった。ほんの一分のほどの戦闘で、シェルメール騎馬隊は全滅する。
「まさに鬼神よ……」
 その戦いを呆然と見詰めていたヴィルヘルム1世が、小さく呟く。アルティガルドに、これほどの槍術と馬術の使い手をいないであろう。
 前方の集団から、少年兵らしき者が近付いて来る。
 成り行きを見守りながら、呼吸すら忘れていた。
 小姓の少年が、大声で「ランお姉ちゃん」と呼びかけて、大きく手を振り始める。
「アルティガルド王陛下と、お見受けいたします」
 旧サリスの白亜の鎧をまとった少年兵は、きびきびした動きで片膝を付いた。
「貴殿は?」
 刀根小次郎が盾になるように前に出ると、背筋を伸ばして、凛とした声で問い掛ける。
「シデ大公国軍総参謀長オーギュスト・オズ・ディーンの従者で、ラン・ローラ・ベルと申します」
 小次郎は素早く、ナルセスの次男ナイトハルトを見た。泣きながら、ナイトハルトが頷く。
「では、あの黄金の武者が?」
「はい」
 自然と小次郎は笑っていた。それから振り返って、ヴィルヘルム1世へ視線を送る。
「……」
 ヴィルヘルム1世は、生唾を呑み込んで、やや震えるように頷く。
 先ほどの騎馬が、ゆっくりと近付いて、下馬すると恭しく跪く。
「直答を許す。シデの総参謀長ディーンか?」
「御意、ここからは、我等が護衛致します」
「どうして、ここへ?」
「サイアより帰還途中でありました。すでにカッシーは落ちております。一時、我等がマーキュリー要塞まで、御避難を」
「……」
 真偽の判断がつかず、言葉に詰った。その時、シデの軍勢の中から、側室のアゼイリアが駆け寄ってくる。
「如何にか、お助けできました」
 悠然とオーギュストが言う。


【メルキュール州境の橋】
 しっかりした造りだが粗末な馬車を護衛して、銀馬に跨るオーギュストが進む。それに従うのが、モンベルに巣くっていたラマディエと、サイアのファンダイクである。馬車は途中、商人から調達したもので、中にはヴィルヘルム1世とアゼイリアの二人が乗っていた。
 アゼイリアは泣きながら、ヴィルヘルム1世の胸にしがみ付いている。それをヴィルヘルム1世が、優しく撫でていた。一見すれば、仲睦まじい男女なのだろうが、しかし、ヴィルヘルム1世の眼は、鋭く左右に揺れて、執拗に周囲を観察していた。
――軍服がバラバラだな……
 ある兵の肩には、旧サリスの紋章の上に、真新しいシデ大国軍の紋章の布を張っている。またある兵は、サイアの紋章の刺繍を剥がした跡が残っている。どういう集団なのかと不審{いぶか}しがる。
 橋が見えてきた。その手前に、アルティガルド軍の士官が控えている。そこで、一行は一旦止まった。
「ヴァイスリーゼ(白い巨人)のベアトリックス・シャルロッテ・フォン・フリッシュ大尉であります。陛下、御無事でしょうか?」
 馬車の横に、白い軍服姿のベアトリックスが跪く。ベアトリックスは、カッシーまでナイトハルト(ナルセスの次男)を送り届けた後、再びシデへと戻る途中に、この事変に遭遇した。そして、オーギュストからの連絡に従って、この橋を守っていた。
「あれは……?」
 アゼイリアを突き放して、ヴィルヘルム1世の腰が浮いた。対岸には、また異なる軍勢が展開している。
「橋の先に見えますのは、シデ大公国軍のメルキュール州軍です。マーキュリー要塞よりの出迎えです」
 ベアトリックスが答える。
「……分かった」
 ヴィルヘルム1世は止まっていた息を、大きく吐き出して、再開させる。
 と、オーギュストが、ベアトリックスの横に跪く。
「ここで、暫しのお別れです」
 さらりと言われて、ヴィルヘルム1世はぎょっと目を剥いた。
「……ディーン将軍はどうする?」
 はい、と笑顔で頷く。
「ここで、追っ手を食い止めます」
 然も簡単に言った。

 先にヴィルヘルム1世とアゼイリアを渡すと、オーギュストは「さて」と呟く。
「緊張しましたァ……」
 傍らで、ランがふぅと息を吐く。
「俺にもそのくらい畏まって欲しいね。何と言っても師匠なんだから……」
「閣下ほど強くしてくれたら、それこそ神のように敬いますよ」
「そいつは……厄介だな」
「……」
 ランはオーギュストを睨み上げる。
 その時、北側の森から飛んで来た鷹が、ランの腕に留まった。ランは、足に括り付けられているメモを見て、表情を引き締める。
「ファルコナーからか?」
「はい、カリハバール軍が迫っています」
「そうか、ふふ」
 オーギュストは小さく笑うと、首や腕の筋を伸ばした。それから、武具を背負ったヤンへと右手を伸ばす。
 ヤンは「は、はい」と答えて、背負っていた荷を下ろす。そして、ボウガンと長弓で迷った後、ボウガンをオーギュストに手渡そうとする。と、オーギュストの手の動きが止まり、すぐに横からランが弦を張った長弓を差し出す。オーギュストはにっこりして、それを受取、弦を確認するように一度鳴らした。
「魔矢を」
「静寂の魔矢ですね」
「そうだ」
 ランは銀色の矢筒の封を切って、黒い矢を一本取り出す。オーギュストは人差指と中指で、そっと撫でて呪文を唱えた。魔矢はすうと半透明になる。
「さて、やってみるか……」
 それを番えて、弓を引き絞る。弓のしなる音が、無気味に響いた。
「そこかッ!」
 掛け声とともに、弦が弾かれる音がした。
 半透明の矢は、大きな放物線を描いて、森の際へと飛ぶ。そこにはまだ何もない。どんどん矢は落下する。もう少しで落下すると言う時、いきなり騎馬が森から出現した。
「ぐがっ!」
 登場と同時に、矢が顔に突き刺さる。正確には左目である。
 カリハバール騎兵隊に動揺が走り、一列だった隊列が乱れる。
 オーギュストは、長弓を捨てた。それと同時に、ランがボウガンを二つ投げ上げる。それを左右に構えると、下半身だけで、馬を操って走り出した。
 僅かに時間差を付けて、左右から矢を放つ。先頭を走るカリハバール騎兵は一本目を槍で叩いて、やや左に体を傾けた。ともう一本が、兜と鎧の隙間に突き刺さる。
 その間に、左右にカリハバール騎兵が回り込もうとしていた。
 オーギュストは再び、矢を放つ。カリハバール騎兵は馬上で身を屈めたが、その下げた額に矢が当たる。そして、振り向き様にまた放つ。前の騎兵は咄嗟に避けたが、その後ろの騎兵を直撃する。前の騎兵が思わず気を取れて振り返り、そして、戻した瞬間に眉間を射抜かれた。

 これを、ヴィルヘルム1世は川の向こうで、観戦していた。
「まさに神の威よ……」
 ヴィルヘルム1世の目には、カリハバール騎兵は、放たれた矢に、自ら当たりに行っているように見えた。これほどの弓術を聞いた事もない。
 ふつふつと歯痒さが込み上げてきた。
「これほど騎士が、我が軍に居れば、このような事態にはならなかったものを……不甲斐ないものばかりだ」
 毒のように、濁った声だった。

 最初に射抜かれた騎兵が、オーギュストの背後を取った。指揮官のハッセム・レイスである。左目を布で縛って、血で顔中を赤く染めている。
「でぇ!」
 ハッセムは無駄のない鋭い突きで、槍を繰り出す。
 即断でオーギュストは逆手で剣を抜いて、背を払い、ハッセムの槍を斬り折った。そして、愛馬リトルバスタードの前脚を大きく跳ね上げさせると、後ろ足で小さく回り、元に戻る勢いで、ハッセムを蹴り倒した。
「父上!!」
 勇んで、ターラが駆け寄る。来るな、とハッセムが叫んだ。落馬した際に、肩を骨折したらしく、苦痛に顔を歪めて、肩を押さえている。
「私が相手だ!」
 ターラが斬りかかった。
「俺を舐めるな」
 これまでのカリハバール騎兵よりも動きが鈍い。オーギュストは失笑気味に、ランの方へ視線を送りながら、剣を振り下ろす。
 カチン!
 剣をターラが左手の篭手で受け止めた。飾りのダイヤモンドに当たって、刃が欠けだが、ターラの腕は折れたであろう。
「やるじゃないか」
 オーギュストは、素早くターラの右腕を掴み、強く捻り上げた。
 ターラは懸命に耐えたが、無情にも、手から剣が零れる。
「こっ、殺せ!」
 首筋に剣先を添えられて唸る。
「そうさせてもらおう」
 オーギュストは捻ったまま腕を引く。全く抵抗できないまま、ターラは馬から転げ落ちた。
「覚悟!」
 オーギュストの声に、仰向けに倒れたターラは目を瞠った。
「ひぃ……っ!」
 その視線の先では、オーギュストが剣を突き落とそうとしていた。思わず、目を閉じる。さくっと突き刺さる音がする。身体が尋常じゃない程硬直した。だが、痛みはない。恐る恐る目を開くと、剣が脚の間に突き刺さっている。
――外したのか……
 刹那、希望に力が漲った。そして、身体をずらして、逃げようとする。が、ピンで押さえられたように、ピクリともしない。上体を起こして見ると、剣は股間の濡れた布を貫いていた。
――失禁していた……
 身体中の血が凍る気がした。これほど恥辱があろうか、ターラは殺意を込めて、頭上を睨む。
「あっ!」
 だがそこに、もうオーギュストの姿はない。驚くよりも早く、背後の森から鳴る物音に首を捻っている。遅れていた弓隊が到着して、一斉に弓を構えていた。
 オーギュストは橋に向かって駆ける。途中、燃える荷車を飛び越えた。オーギュストの戦闘中に、ランが火をつけていたものである。そのランを拾い上げると、真っ直ぐ橋へと駆けた。
「狙え」
 弓隊の隊長が命じる。
 オーギュストはランを担いだまま、精神を集中させて、詠唱を行う。
「イフリート!!」
「放て!!」
 天に、二つの声がこだました。
 解き放たれた矢の群れが、空を黒く埋め尽くす。
 荷車の炎が天を焦がさんばかりに燃え上がって、空中で一つ塊となった。それが弾けると、炎の魔人が姿を現す。そして、天空を覆った矢の群れに、その炎の腕を振り払う。高熱の帯が蒼穹を一線、一瞬で全ての矢が灰となった。
 カリハバール軍は恐慌に陥る。
「魔術師が居るぞ!」
「魔術妨害を!」
「そんなものがあるか!」
 罵声が飛び交う。目に見えて、戦意を失っていく。
 オーギュストは橋の上に至って、ようやく速度を落とす。そして、担いでいたランを下ろすと、黄金の兜を外して、勝ち誇ったように、高く拳を突き上げた。
 もうカリハバール軍に、追撃しようとする者は、誰もいない。
「負けた……」
 ターラも、オーギュストの姿を、ただ呆然と眺めていた。全ての面で、絶望的な距離を感じる。
 オーギュストは、黄金の兜を無造作に投げ捨てて、リトルバスタードの首を、愛しげに撫でる。その足元で、きっとそうするだろう、と読んでいたランが、落下寸前の兜を見事に受け取っている。
 渡り終わって、オーギュストは橋の五箇所を破裂させた。崩れ落ちた石や木材が、我が身のように思えて、カリハバール兵の心を寒くした。以後、カリハバールに“銀馬の黄金騎士”という異名が囁かれるようになった。


【メルキュール州マーキュリー要塞】
 城内御殿の最深部には、“昭君館”と呼ばれる別館がある。貴人を迎えるために、武骨な城内の中でも、優美に造られている。ここの最初の客が、アルティガルド王となった。
 長い夜の終わりを告げて、朝陽が世界を照らして行く。
 ヴィルヘルム1世は、まんじりともしないで一夜を明かした。隣には、泥のように眠るアゼイリアがいる。その寝顔には、深い憔悴が感じられた。
 彼女を残して、天蓋のあるベッドから、裸で立ち上がった。
 部屋には新築の木の香りが、立ち込めている。壁には、萩、紫陽花、尾長鳥の絵が飾られて、なかなか雅ではある。が、白く高い天井のシャンデリア、技巧の凝らされた家具、そして、額縁までもが金色に輝いている。金即ち豪華という考え方が透けて見えて、やや興醒めする。
 すりガラスの扉を開いて、庭に出る。ぽつんと井戸があるだけで、草木すら植えられていない。仰ぎ見ると、黒い大小の塔が豪壮に聳えている。質実にして剛健なその姿は、見る者を威圧しているようだった。また、見るべきは高い石垣であろう。優美な弧を描いていて、上部へ登るに従ってそりが付けられている。
 短期間でよくも造った、と思う。
――これも、ディーンの仕事だろうか……
 そうに違いない、と根拠もなく確信する。と同時、腹に据えかねるものを覚える。
「アルティガルドは世界最強の大国と言うに、一人として、ディーンに優る者なし」
 敢えて、言葉に出してみる。
 ベレンホルストが選んだ将軍たちは、誰一人としてこの事態を予期できず、ただセリム1世にしてやられただけだった。もう世界は、あの老人の想像の範囲を越えたのかもしれない。今こそアルティガルドには若返りが必要なのだ。
 太陽の角度が変わって、ヴィルヘルム1世の目を差す。その眩さも気にせず、光へ視線を重ねると、腕を伸ばして太陽を掴もうと拳を握った。
 自分は太陽である。太陽として、世界の隅々を照らし、秩序と安定を取り戻さねばならない。これがカール大帝の血を受け継ぐ自分の運命である。そして、その偉業を成し遂げるためには、若く有能な人材が不可欠なのだ。
 ベレンホルストは、祖父王、父王と仕えて、今もよく支えてくれている。だが、視野がアルティガルド王国に留まり、新しい世界への未来像がない。結局、自分と共に、空高く太陽のように登る者ではないのだろう。
「ディーンが欲しい……」
 これほどの飢餓感を抱いた事はない。ただ幼児が飴玉を欲しているのとは、根本的に何かが違う。ともすれば、覇者への第一歩は、あの男を屈服させることから始まるのかもしれない。漠然とだが、そう想い始めていた。

 その頃、オーギュストは大塔(天守)にいた。
 大塔は隣の小塔と並んで吃立して、周囲には何十もの櫓郡を従えた姿は、まさに豪壮無比である。
 大塔の地下一階は、深い井戸がある台所で、篭城に備えてある。一階から上は基本的に倉庫だが、各階には、武人の象徴とも言える剣、槍、弓、馬、兜などの壁画のある部屋があり、戦時では会議室などになる。これらの上に女神エリース像のある最上階が乗っていた。
 跳ね馬に、眩い朝陽が差し込む。武骨な格子窓では、小鳥達が競うように囀りあって、新しい日常の始まりを告げていた。
 オーギュストは服を整え終わると、急な階段の手摺に手をかける。
「今夜も俺の部屋へ来い」
 そう言い残して、階段へと向かう。
「はい……」
 蓬髪の下から覗いて、ベアトリックスは従順に頷いていた。
「綺麗にして来いよ。気に入ったら、陛下に申し出て、正式に貰い受けてやる」
「あ、ありがとうございます……」
 屈辱的な言われ方にも、ベアトリックスは恍惚と頷く。
――どうして……こうなったのだろうか……


 昭君館寝室の隣に、広い部屋がある。大きな窓が二つ並んで、その間に暖炉がある。その暖炉の前に、一つぽつんと椅子が置かれていた。そこが臨時の謁見室となった。最初の謁見の栄誉に預かったのが、オーギュストである。
 支度を整えて、ヴィルヘルム1世が入室すると、鷹や鉄扇などの貢物が山のように積まれていた。
「見事な働きであった」
「有り難き幸せ」
 深く平伏する。
「褒美をとらせたいが、ご覧の通り、気の利いた剣すらもない」
 ヴィルヘルム1世は軽やかに笑う。貢物の剣を手に触り、それから、鉄扇を掴んだ。
「お気遣いなく。御役に立てただけで、家名の誉れと存じます」
「それでは余の立つ瀬がない。取り敢えず、爵位を与えたいのだが、さしずめ、ヴェルダン男爵で如何かな?」
「……」
 叙爵は、家臣を意味する。オーギュストは直ちに即答せず、暫し間を置いてから、拒否の台詞を伝える。それを、ヴィルヘルム1世は、あっさりと聞き入れた。
「然もあらん。さすがに、騎士の鏡である」
「畏れ入ります」
 ゆっくりと鉄扇を開いて顔を隠す。
――そうでなくては面白くない。忠誠心の低い男などに用はないのだから。さて、これからどう料理するか、楽しみだ……
「聞けば、ポーゼン伯のアベールが掘り起こした、将軍位を使用しているとか?」
「はい、成り上がり者ゆえ、名前に箔を付けたく。恥ずかしき限り」
「いや、よいよい」
 鉄扇を差し出して、オーギュストを制する。
「しかし、軍師将軍では、如何にも古めかしく、芸がない。折角である。余はディーン将軍の戦いを見て、まさに神の威を振るう者よ、といたく感心した。以後、神威将軍を名乗るが良い」
「恐悦至極」
 オーギュストは割と気に入ったらしく、丁重に礼を述べる。
「うむ」
 優雅に鉄扇を広げて、満足げに微笑んだ。それから、急に顔を引き締めて、ぱちりと閉じる。
「一つ聞きたい」
「はい」
 オーギュストは顔を上げた。
「余はこの後どう対処すべきか?」
「まずは皇帝に即位される事です」
 思わず、ヴィルヘルム1世は眼を瞠る。真実これは意外な提案であった。何度も宰相ベレンホルストと、皇帝即位の時期について打ち合わせを重ねてきた。詰めの段階にあり慎重さこそが大事、とベレンホルストは諭した。それに、ヴィルヘルム1世も同意し、周りから押される形での即位を望んでいた。だからこそ、カリハバール打倒の名声が必要であった。
「ほぉ、しかし、大敗の後だぞ?」
「大敗と申しても、負けたのは辺境でのバイエルライン将軍だけ。それにより、多少の配置転換がありましょうが、アルティガルドにとって、どうという事ではありますまい」
「左様だが……」
 オーギュストは瞳を動かさず、かつ、瞬きもせず、ただじっと見詰める。そこから、オーギュストの心理は覗けない。ヴィルヘルム1世は、肘掛の端を人差指で、とんとんと叩く。それが、考えている時の癖である。
「何と申しましても、天下騒乱の因{もと}は、正統なる皇帝不在にあります。民は導き手を失い、迷っております。一方、皇帝を名乗るセリム1世が居ります。偽りも、言い続ければ、真実に見えて来るものです。特に、無教養な者ほど、セリム1世こそが正義、と簡単に詭[あざむ]かれましょう」
「それは断じてあってはならん!」
 いきなり、ヴィルヘルム1世が激昂する。
「はっ、まさに、カール大帝の御偉業が無に帰しましょう」
 オーギュストも昂奮したように、強く早く言い放つ。
「だからこそ、即位か……」
 目を閉じると、鉄扇を顎に当てる。それから、短く唸った。
「そうです。これで真実がどちらにあるかはっきりし、女神エリースの駕籠も迷う事なく、受けられましょう」
「よくぞ申した」
 ポン、と鉄扇で、小気味よく肘掛を叩く。
「はっ」
 オービュストはまたしても深く頭を下げた。
「他に、何か欲しい物があるか? セリアに帰ってからでも、授けよう」
「では」
 オーギュストは顔を上げると、ヴィルヘルム1世の傍らを指差す。
「刀根小次郎殿を頂きたい」
「何?」
「成り上がり者ゆえに、従う者も少数です。小次郎殿のような有能な者があれば、と常日頃想っておりました」
 再び、オーギュストは頭を下げる。
「小次郎をねぇ……」
 刀根小次郎は人質である。人質を譲ると言う事は、その背後の組織も渡す事となる。暫し、ヴィルヘルム1世は目を閉じて考えた。いろいろな事情を天秤にかけて、最後は、王者たるもの寛大でなくてはならない、と思い至る。
「よかろう。小次郎よ。今日からディーン将軍の下で働け」
 そして、大きく頷いて、決断を示す。
「よき絆と成りましょう」
 一方、当事者である刀根小次郎は、状況の成り行きを、一人どうにも理解できずにいた。
「……」

 その正午、オーギュストは、要塞司令官アラン・ド・パスカルの部屋で昼食をとる。壁の前には、書籍や図面が乱雑に重なって、まるで強盗に入られた跡のようだ。その部屋の中央にテーブルがあり、男が5人いた。
 それぞれ、雑多な物を傍らに寄せて、自分の前に皿一枚分のスペースを作る。上座にオーギュスト、その左手にパスカル、右手にラマディエ、ファンダイク、ファルコナーと居た。
「ヴェルダン男爵ときましたか」
 パスカルがバスタを口に含んで笑う。
「喰えんおっさんだ。敵の占領地だぜ」
 オーギュストも笑い出す。二人とも、義勇軍時代と変わらぬ、崩れた作法である。
「切り取れ、と云う意味でしょうか?」
「いや、あちこちに配慮したんだろう。本国じゃ反発も多いだろうし、所詮、俺は余所者だから」
 オーギュストの言葉に、パスカルが小刻みに丸い顔を動かす。軍服の襟元をだらしなく開いて、ズボンからシャツもはみ出ている。しかし、見た目と違って、歴代聖騎士の家系で、その気になれば、ヴィルヘルム1世への接待もそつなくこなす。
「しかし、アルティガルド対策で改装中の城に、そのドンを迎えるとはね……」
 口一杯に料理を詰め込んで、パスカルが苦笑する。
「どのくらいの情報が漏れたでしょう?」
「さあねぇ、だが、もう一度作り変える必要があるだろうね」
「そいつは、大変だ」
 パスカルがふぅーと息を吹く。
 この要塞は元々、南からの攻撃に備えて、南向きに建設されていたが、それをパスカルが北向きに改造した。北大手門を新設して、本丸を大塔北から南へと移す。短期間で効率的な再建案である。ただ先進的な要塞を目指していた改装前に比べれば、やや前時代的になった感はある。このように、巨大要塞を巧みに改築できても、自分の部屋一つ片付けられないのが、パスカルという男の面白さである。
「それから、ファルコナー」
 オーギュストは末席をフォークで指す。
「はい」
「お前の鷹を、えらく気に入っていたぞ」
「そうですか」
 それほど関心がないらしく、会話は弾まない。急に室内が妙な気まずさに包まれた。
 部下の愛嬌のなさに、ラマディエは内心舌打ちすると、そわそわと媚びるように喋り出す。
「まことに有り難き事、ファルコナーも喜んでおります。これからも、鷹でも鷲でも鳶でも、何でも申し付けくださいまし」
 はは、とパスカルが吹き出す。
「おいおい、上司に、気を使わせるなよ」
 つられたように、オーギュストもにやけた。
「あの~ぉ」
 この場に馴染めていないファンダイクが遠慮がちに手を上げる。
「上司と言われましたが、正確には、我らの立場はぁ?」
 それに、オーギュストはフォークを皿に置いて、口を拭いた。
「ラマディエとファンダイクは、取り敢えず、俺の側近という形だ。戦いが終わったら、シデ政府に席を用意しよう」
 畏れ入ります、とラマディエは頭を下げた。その薄い頂部を見ながら、オーギュストがさらに呟く。
「当分、俺の叔父として、ディーンを名乗れ」
「はぁ???」
「ラマディエと紹介できないだろうが!」
「あっ、はい。重ね重ねのご配慮畏れ入ります」
「うんうん……」
 曖昧に返事して、頭を掻く。ラマディエの丁寧すぎる態度が、何処か居心地悪い。ただエマの父親であるから、それを率直に言えずにいる。次に、ファンダイクを見た。まだ、聞きたい事があるようなので、目で促す。
「戦いが終わると仰ったが、どういう結末を想定していらっしゃるのか?」
 ファンダイクにしてみれば、何かやり切れない想いがあった。半ば脅迫でサイア(カフカ)からの寝返りを強いられた。その前にアベールの下を出奔しているから、これで2度目である。武人として忸怩[ジクジ]たるものがある。
――こうなれば、恥も何もない。ディーンの寝首を狩って、アルティガルドでもオルレランへでも何処へでも行くのも良かろう……
 と極端な事さえも想う。だが、その一方で、オーギュストに敵対するなど全く力不足である、という認識もしっかりとしている。そんな自分が愛[いと]おしい。
「……」
 オーギュストは無言で肘をテーブルにつく。
「ヴィルヘルムが新皇帝に即位して、アルティガルド朝を開けば、セリアでは大きな反発を招くでしょうね。それをセリム1世は見逃すとは思えません」
 パスカルが言う。
「そんなに悠長な事は、ない。全てはカッシーで決まるぞ」
 オーギュストは低く呟く。それから、パスカルへ鋭い視線を送った。
「シデからの出兵の報せは?」
 それにパスカルは、オーギュストの背後机の、その上に築かれた書類の山を指差して、「あそこの何処かにあります」と言った。
「……」
 オーギュストは、二の句がつげない。

 午後、ヴィルヘルム1世の相手をして、くだらないお喋りといかさまカードゲームをこなす。そして、夕食を済ませて、オーギュストは狭くて暗い廊下を自室へと歩く。手にはシデからの出兵計画案があった。
「ロックハートも必要だな。シデの守りはブーンがいれば何とかなるだろう……ヴィルヌーヴもいるなぁ……」
 ぶつぶつと呟いていると、刀根小次郎がドアの前で控えていた。
「これを」
 怯え切った顔で、クリスタルの棒を差し出す。これは光の魔術を応用して、文字や図面などの情報を記憶する事ができる。
「ああ」
 オーギュストは手に取ると、クリスタルを握り潰す。
「……わ、私は、こ、これから……」
「今から、シデへ発て」
「へ……は、はい……」
 まだ、ガタガタと手足が震えている。
「そこで何を?」
「ティルローズ様に仕えろ。推挙してある。シデに屋敷も用意させよう。家族とともに住め」
「何故?」
 オーギュストは小次郎の肩に手を置いた。
「お前の律義さに期待しているだけだ。当分は、俺の連絡役を勤めよ」
「はっ」
 冷たい汗が滴る額を、床に付けた。オーギュストは、廊下に小次郎を残して、部屋に入ろうとしたが、「ああ、そうだ」と振り返った。
「夜、光の魔術を使う時は、ちゃんと遮光しろ。不自然な精霊の動きは、すぐに発見される。次からは注意しろ」
「はい」
 小次郎はぎくりと生唾を呑み、そして、小さく頷く。助かったのだろうか、否、生殺与奪の権を握られている事に変わりはない。
 そして、ドアが閉まった後、ゆっくりと立ち上がろうとする。と、服が汗で冷たくなっている事を知る。それから、とぼとぼと、まるで雲の上を歩くように廊下を進み、角を曲がった所で、軽い眩暈に襲われて座り込む。不意に涙が溢れてきた。そして、そのまましばらく、動く事が出来ない。気が付けば、外はすっかり暗くなっていた。
 背後から、廊下を歩く音がした。
 角から見れば、部屋のドアを、丁度ベアトリックスが丁寧に閉めるところだった。鍵の閉まる音が無情に響く。
――どうして、こうなってしまったのだろうか……

……
………
 ベアトリックスと刀根小次郎は、大塔内部に忍び込んでいた。将来、アルティガルド王国とシデ大公国は、まちがいなく敵対するだろう。となれば、この要塞は境目の城となる。またとない機会ではないか。折角、城の中枢に入れて、手ぶらで出て行く義理はない。
「大尉、何もありませんね」
 小次郎はまるで猫のように、真っ暗な室内を、音もなく歩き回る。そして、室内を備[つぶさ]に調べると、ベアトリックスの足元に膝を付けて報告した。
「上の階へ」
「はい」
 刀根家はワ国から渡ってきた忍びの一族である。普通、特定の主人を持たないのだが、小次郎の父勘助は、アルティガルド王国の先々王フェルディナント2世に心酔して、その影として活躍する。晩年は大監察として、政治に大きく関わった。しかし、その栄華こそが一族に危機を招く。フェルディナント2世と勘助の死によって、一族は競争相手(ベレンホルストなど)に蹴落とされて、要職から追放された。
 現在、刀根一族は勘助の弟勘二郎が統率していたが、この勘二郎は復権を目論んで、ヴァイスリーゼ(白い巨人)に近付いていく。この流れの中で、小次郎は人質となり、その姉である刀根留理子は、ティルローズの傍に潜入していた。
「大尉」
 小次郎がベアトリックスを呼ぶ。
「どうした?」
「壁が厚いようです」
 小次郎とベアトリックスは、階段から西、南の廊下を廻って、東南の角で足を止めた。
「入れるか?」
「何とかしてみます」
「頼む」
 小次郎は壁を念入りに調べ、寄木細工のパズルを解くと、中のレバーを見つけ出す。
「よくやった」
 隠し扉を開いて、ベアトリックスと小次郎は中に入った。
「これは?」
 隠し部屋の棚に、無数の図面が収められている。また、奥の机の上には、透明の球体がある。脇のパネルに触ると、球体内部に、要塞の全体映像が浮かび上がった。光の魔術を応用したものである。
「要塞のデーターのようです」
「複写できるか?」
「一時間下さい」
「よし、急げ」
 小次郎はクリスタルの棒を机に差し込んで、手際良く作業を始める。30分が過ぎ頃、階段から人の声がした。
 見回りか?
 二人は緊張する。そして、ベアトリックスは小次郎に作業を続けるように指示を出して、隠し部屋を出た。北側の廊下へ廻ると、闇に隠れて、ナイフを手にする。
 西側の廊下には、月の光が差している。その淡い光に照らされて、階段を登る人が見えてきた。
「大塔に人を配していないのですか?」
「人手が足りていないのだ……」
「そうですか。じゃ、次を」
 要塞の警備担当に案内されて、ランとヤンが城内を巡回していた。一応オーギュストの警護のためと言う名目だったが、明らかに、冒険心の方が勝っている様子だった。
「はいはい、こっちへ……はぁ(まったく、何で俺が)……」
 そわそわしている子供二人に対して、警備担当はウンザリした様子である。仕事は山のようにあるのだろう。 三人は西の廊下を南へと進む。
――まずい……
 ベアトリックスは焦る。そして、気配を消して、階段へと跳び、恰も今上がってきたようなふりをした。
「何もない塔ね」
 ぎしぎしと、これみよがしに階段を軋ませる。
 何者だと警備担当が叫んで、腰の剣を掴んだ。それをランが、アルティガルド軍の大尉殿です、と制する。
「その大尉殿が、何の御用でしょうか?」
「塔に入る人影が見えたから、三人とも十分怪しいわよ」
「アルティガルド軍の方には、ご遠慮願いたいですな」
「そうはいかない。アルティガルド王が滞在されているのだ!」
 突然、ベアトリックスの口調が強くなる。それに、警備担当は色を失った。それを見て、ベアトリックスは畳み掛けていく。
「この塔は王の居られる昭君館を見下ろしている。戦術士官として、警戒するのは当然であろうが!」
「……一言、断っておいてもらいたかった……ですな」
 怖気付いたように、たじたじと答える。
「それはごめんなさい」
 と、今度は優しウィンクする。
――あと30分……
 裏では、心臓が激しく波打っている。
「それじゃ、降りましょうか?」
 4人は、大塔の玄関から外へ出た。五段ほどの階段を南へ降りて、石垣沿いに、右へ進む。真っ直ぐ進むと、本丸御殿への門。また右に折れると、旧本丸だった北の丸へと続く門がある。その門をくぐれば、左手に長い階段があり、西の丸へと至る。
 ラン達は宿舎のある西の丸へと右に曲がる。ベアトリックスは本丸御殿最奥部の昭君館へ行くふりをして、直進したが、石垣の影に隠れる。そして、ラン達が大塔脇の門を越えたのを確認して、もう一度大塔へ戻ろうとした。
 その時、かなり酔った若い男の声がする。
「おい、キンとギン、こんな所で何をやってるんだ」
 思わず、ベアトリックスがギョッとする。
 酒のボトルを持って、よろよろしながら、オーギュストが歩いている。
「素振りは終わったのか? 素振りは?」
「すいません」
 ヤンが深々と頭を下げた。
「酔っているんですか。まだ未成年でしょ」
 腕組みをして、ランが言う。
「馬鹿者。俺は来月19歳だ。もう大人だ。それに俺は酔ってなんかないぞ……ひくっ……湖の男は酒に強いんだ」
「もうオヤジですよ」
「うるさい、破門にするぞ。破門に」
 オーギュストはそう絡むと、大塔の玄関へと向かう。背中から、ランが何処へ行くのかと訊く。それに、「塔の上で寝る」と叫んだ。ヤンが何やら止めようとしたが、ランは「酔っ払いはほっときましょ」と呟く。
 オーギュストはふらふら歩きながら、しなる階段を上っていく。
「……小次郎……」
 ベアトリックスは、心の中を掻き毟られるような、激しい焦燥を感じていた。そして、地獄の底まで、落ちて行きたいような自暴自棄の気分で、大塔の中へと飛び込んだ。
「ほぉ」
 馬の絵のある階で追い付く。オーギュストはとろんとした目で「誰だ?」と振り返る。ベアトリックスは妖艶に微笑みながら、月明かりの下へと出た。
「あら、総参謀長様も高い所がお好きなようね、ふふ」
 ベアトリックスは酔った演技をして、「暑い暑い」と白いシャツの胸元は開らくと、豊かな谷間と、黒の下着を見せつける。
「塔の上なら涼しいと思って、私にも頂戴?」
 オーギュストは階段の手摺に寄りかかると、赤く酔った顔の横にボトルを掲げる。
「これ?」
「そう、欲しいの。ご褒美を上げるわよ」
 オーギュストの手を掴んで、胸元へと運ぶ。
「やわらかいでしょう?」
「嫌だ。これは俺んだ」
 子供のように言って、煽るように酒を飲み干す。
「ああ、ずるい」
 ベアトリックスはボトルを取ろうとして、腕を伸ばず。自然に、胸をオーギュストの脇腹に押し付けた。
 不意にオーギュストは体を捻って、ベアトリックスの身体を手摺に押し付けた。そして、素早く唇を奪う。
「どう美味い?」
 唇が離れると、たらりと一筋、茶色酒が、赤い口紅の塗られた口端から零れた。
――あと15分……
 ベアトリックスは、流れ込む苦い味の酒を飲み干す。
「もう強引なんだから、子供ね、ふふ」
 妖美に笑った。内心、調子に乗るな、と怒鳴りたい気分である。
「俺に抱かれに来たんだろ?」
 オーギュストが強気に迫る。そして、正直になれよ、と耳元で囁かれた。
 ベアトリックスは嫌悪感から、ゾクリと背筋が寒くする。
「随分、天狗なのね――」
 それでも、挑発を止める訳にはいかない。作戦の失敗など、彼女のプライドが許さない。
「もっと気持ちよくさせて……」
 オーギュストの顔を、しなやかな指で撫でる。
 あっさりとオーギュストは野獣の本性を露にして、激しく唇を奪う。ベアトリックスは両腕を首に回し、舌を差し出して応える。そして、うっとり鼻を鳴らした。
――こいつ……!
 次第にベアトリックスの身体から力が抜ける。
「うう…っん……」
 上から覆い被さられて、唇をぴったりと塞がれる。絡みついてくる舌は、時に挿し込まれて歯の裏側を這い、時に舌を吸い取っては、ちゅちゃ、ちゅちゃ、と卑猥な音を立てしゃぶる。
――ううっ……汚い……
 男に舌を吸われる感触は、おぞましく、身震いした。しかし、オーギュストはお構いなしに、たらたらと唾液が送り込み、ベアトリックスは仕方なく、それを嚥下した。
 と不思議な事に、電流のような快美感が下腹部で渦巻く。
――どうして、どうしてなの……相手は男なのに…こんな気持ちになるなんて……
 腰が蕩けて、秘列の奥がとろりと弛んでいく。思わず、階段手摺の柱に凭れて、腰が砕けるように落ちた。それをオーギュストは両腕で抱き支えた。
 オーギュストは餓えたように、荒々しい。釦など外さす、白いシャツを捲り上げて、万歳するような格好で脱がしていく。
――あ、ああ、どうしよう……
 床に膝をつけて、ベアトリックスは柱にしがみ付いた。オーギュストの唾液が、くだもののように甘い。さらに、注がれれば、注がれるほど、どぎつい甘さが強くなっていくようだった。男の唾液だと言う事も忘れて、夢中で啜った。と、恰も同調したように、秘孔から、熱い滴りが滴る。
 オーギュストは白い背中に舌を這わせる。そして、両手を前に回して、白桃のような胸を揉み立てる。
「どう、抱かれたくなった?」
「……」
 またもや、オーギュストが耳元で囁く。そして、乳ぶさを親指と中指以下の指できつく絞り、乳首を人差指の腹で、ぐりぐりとこね回す。
「立っているよ、どうなの?」
「ああ…あ…」
 乳首は、もう固く尖って、発情を隠しようがない。頭もぼっと火照って、思考がぼんやりとしていく。
「誰も見てない。遠慮するなよ」
 オーギュストが甘く囁く。
 それで、はっと「そうだ。小次郎を逃がさなければ」と傾きかけた理性を立て直して、きりっとオーギュストを見た。
「あなたに抱かれたいわ……」
 咄嗟に喋っていた。
「あっ……」
 オーギュストは親指と人差指で摘んで抓る。その痛さが甘美で心地好い。そして、小さく喘いで、身体をピクリと震わす。掌に余る重量感溢れる乳ぶさが弾んで、オーギュストの手を大きく振動させた。そして、白いスカートがすとんと落ちて、魅惑的なヒップが揺れした。
「あ、ああん」
 その丸い美尻を、オーギュストの舌が舐めた。躯の芯がざわめいて、腰が浮く。そして、白い喉を反らして、甘く喘いだ。潤んだ瞳が、宙を彷徨う。その時、廊下の影の中に、小次郎を見つける。
――ここじゃ拙い……
 軍人としての矜持が、如何にか理性を保った。性交を楽しむために、ここで戯れている訳ではないのだから、小次郎を逃がすために階段を空けねばならない。
「ここじゃ嫌……」
 だらしなく開いていた唇をぎゅっと噛んで、手摺から弾かれたように離れる。
「来て……」
 手招きして、奥の部屋へと誘う。しかし、腰に力が入らずに、不様に前へ倒れてしまった。それでも、必死に四つん這いように進む。犬のように格好で部屋に入ると、括れた腰を、張り切った尻肉を蠢かして、女の香りを撒き散乱{ちらか}す。
「ねえ。このマットの上でやりましょう」
「そうだな……」
 オーギュストは北叟笑{ほくそえ}むと鼻の頭を掻いた。
 脚の間の茂みはつつましく、縮れの少ない柔らかな繊毛が、淡く透けている。谷間の息衝く二枚の花弁は、清楚な色彩で、緩やかに弛んで向き合っている。しかし、濡れ光る切れ目を覆いきれずに、濃厚な蜜がとろとろと滲み出て、太腿までも滴っている。
「ああ~ぁ~ぁんんん」
 舌を出して、涎をもらす。
 ねっとりとした、いやらしい視線を、秘肉で敏感に感じる。女性が隠すべき全てを、今男に見られている。屈辱以外ない筈なのに、躯の芯が疼くように震えた。その波動が全身へと広がって、細胞の一つ一つが、高まる快楽に熱く燃え上がっていく。相手は嫌悪すべき男なのに、だ。
「仕方ないなぁ……」
 失笑混じりに口を僅かに動かして、ベアトリックスの後を追う。
 オーギュストは、匂い立つ香りに誘われるまま、剥き出しになった尻の前に屈むと、しとどに濡れた秘唇に、指を挿入する。
「あっ、はぁーーーン」
 長く甘い吐息が、吐き出される。
 熱く蒸れた膣壷が、指をあっさりと咥え込む。そして、熱く粘り気のある液体で、指全体を包み込むと、ぎゅうぎゅうに肉襞で締め付けてくる。それをオーギュストは、鈎状に曲げた指で、掻き混ぜ、さらに掻き出すように抜き差しする。
「ひぃっ…ひぃ…ひぃぃん…」
 内臓までも引き出される気がして、気が変になりそうだった。
――小次郎、今よ……
 それでも、視線の端を階段に向け続けていたのは、エリート軍人として、任務に対する最後の意地であったろう。
 影がさっと駆け抜けたのを確認した瞬間、一気に気が緩んでしまった。そして、そのタイミングに合わせたように、指の速度を徐々に上がっていく。もう耐える事は出来なかった。否、正確には、耐える必要がなくなったのだ。
「も、もう……もうダメェ!」
 蜜液の飛沫{しぶき}が飛んだ。オーギュストの腕を、床を瞬く間に濡らしていった。
「ひぃ、ひぁぁぁあああん」
 潮の噴出しに合わせるように、赤い唇からきわどい嗚咽がもれた。痺れるような快感が、背筋を駆け抜けて、脳天を貫く。
「イク、イッちゃうのぉ!!」
 あられもないよがり声を上げて、腰を振りたて、絶頂へと昇っていく。何か、ベアトリックスという女を構成する何かが、流れ出て行ってしまった……
 熱い潮吹きの後、荒い息を吐きながら、恍惚に火照った貌で、ベアトリックスは振り返った。
「どうした、まだ物足りないのか?」
 オーギュストが嬲る。
――どうして、どうして……???
 自然と涙が滲んでいた。
「は、はい(いや、やめて……)」
 ベアトリックスは力無く俯く。身体が、どうしようもなく、男を求めている。
「貫いて、私のオマンコを突き刺して、もう我慢できないの……」
 何故だろうか、どうして、自分がこんな卑猥な言葉を口走ったのか分からない。
――オマンコ?
 だが、もう一度繰り返した瞬間、視界が揺らいだ。それは恰も脳の中を、一閃稲妻が走ったような感じだった。深い霞みが吹き払われて、闇の奥底に光が差し込む。そして、封印されていた映像が流れ出て、走馬灯のように駆け巡っていく。
「そうだ……」
 思わず呟く。昨夜、夢の中で何度も何度も犯された。いや、昨夜だけはない。その前夜、そのまた前夜と、記憶を辿ればと辿るほど、淫らな夢が甦る。
「そうだ。そうなのだ」
 毎夜毎夜、セックスの夢に耽り続けていたのだ。淫乱、と烙印されたような気分である。
――ああ……そうだった……
 それからも徐々に、自分が何者で、自分が何をしたのか、はっきりと理解し始める。
 夢だけでなく現実に、この男に犯されていた。たった一度だっけ、アフロディースとともに抱かれた。
――死ぬッ……!
 その倒錯した世界での、自身の変質な行いと裏切りを思うと、腹の底に灼熱の塊の落ちて、その反動で熱波が全身を波打つ。躯が灼け爛れてしまうようだった。
 何度も何度も、淫蕩の中で、僕[しもべ]と成る事を誓った。そのうち、自己暗示にかかったようになり、破滅的なオルガスムとともに、軍の秘密なでも洩らしてしまった。
 だが、恥じ入れば恥じ入るほど、陶酔した気持ちに心がときめく。被虐の官能が溶け出して、精神を醜く蝕んでしまったのだろう。
――なんて甘美なんだろう……
 官能の炙りを止め様がない。
 次の瞬間、どうしてこんな大事なことを失念していたのか不思議に思う。夢にまで、見ていたというのに……
 この男の仕業であろう事は明確である。秘密漏洩を隠すためだったのだろうか。それとも、性癖を変えるつもりだったのだろうか。しかし、もうどうでもよかった。
 オーギュストが秘唇に宛がう。
「う、ふぅん」
 演技でなく、妖艶に鼻が鳴った。床に額をつけているので、髪が煽情的に広がり、身体の突かれる度に、サラサラと動いた。
「ひいっ、ふっ、ううんっ……ひぃやぁんっ!」
 巨塊が、柔肉を抉って突き射る。太さ、深さ、角度を肉孔が覚えている。秘肉がすっかり馴染んでいる。自分がこの男の女なのだと自覚する。
――そうなんだわ……
 心は今でも女性を、アフロディースやミカエラを愛している。しかし、躯はこの男とのセックスに溺れてしまった。もっと言えば、この男の性的道具として作り返られたのだ。
――もう逃げられないんだわ……
 そう観念してしまうと、より一層欲情が込み上げてきた。
「うっ、あぁーーんっ、イイィ!! 動かして、もっともっと壊れるまで突いてぇ!!」
 忘我の境をさまよい、激しく色情に狂う。
「はぁぁぁっ! イクぅ! あぁぁぁぁぁぁーっ!!!」
 絶叫とともに、身体を反らして、背筋から手足へと痙攣させていく。
………
……



【六月下旬、ランス】
 熱帯夜が続く中で、アルティガルド軍の砦に動揺が走っていた。三つの峠全てが、松明の炎に埋め尽くされている。これが意味する所は、退路の遮断に他ならない。
 すぐに、軍議が開かれた。そこに、総参謀長ケーニッヒの姿はない。ランスの高温多湿により陣中には悪疫が流行り始め、先の敗戦で焦燥していたケーニッヒは、その蔓延する病魔に取り付かれて、倒れていた。
 後を託されたのは、第三軍司令官バーンシュタイン中将と第四軍司令官シュヴァルツ中将である。しかし、この二人が激しく対立していた。
 シュヴァルツは、
「全軍で、バビロン城を攻め続ける。最後の一兵と成ろうと、必ずセリムの首を狩る」
 と、主戦論を主張し、
 バーンシュタインは、
「兵を温存して、状況を確かめ、陣営を再編制する」
 と撤退論を譲らない。
「敵の城は完成していない。徒に日数を重ねても、防備が固くなるだけだ。今なら、ひた押しに攻めれば、勝機はある」
「古来、『形勢が不利な時は、退く』とある。敵の城塞は機能している。もはや短期戦での勝利は見込めない。即刻軍を返して、もう一度作戦を練り直すべきだ」
 両者の階級が同じだったために、議論は迷走して出口を見つける事が出来ない。
 そこへ、ペラギアで敗戦した第二軍司令官バイエルライン中将が、ボロボロの姿で逃げ込んで来た。
「敵は皇太子バヤジットとシェルメール草原のアルサス・ラーン」
 と伝え、
「まるで、蝗のように兵が溢れ出てきた……」
 と続ける。
 これに、軍議場は戦戦兢兢となった。
「これではっきりした。攻め続けても、敵の後方には、増援が控えている。古来、『軍は糧食が途絶えれば滅びてしまう』とある。まだ甘水峠が健在のうちに中原に戻るべきだ。何よりも、陛下の安否が気にかかる」
 と勢い、バーンシュタインが強く出た。
「しかし、敗戦を重ねる中で、折角の橋頭堡を捨てては全軍の士気低下は激しいものとなろう。不利の中でこそ粘りを見せ、中原からの援軍を待つべきである」
 と怯まず、シュヴァルツは反論した。
「古来、『害を雑えて、患、解く可きなり』とある。まずは冷静に、こちらの戦力を立て直し、敵の驕りを待つべきである」
 結局、軍議に集まった者達は、
「感情的にはシュヴァルツだが、理性的にバーンシュタインである」
 として、撤退と決まった。
 翌日、シデ大公国が守る甘水峠へと、行軍を始めた。
 だが、この撤退は困難を極める。背後をカリハバール軍に襲われ、また待ち伏せにあい、多くの将兵が戦死した。その中に、病のケーニッヒと、殿を務めたシュヴァルツの名もあった。

「陛下、お久しぶりです」
 涙ぐみ、跪くバヤジットに、セリム1世は厳しい視線を送る。
「ヴィルヘルムを取り逃がすとは、何事か!」
 その声に、バヤジットは笑い出す。
「全くです。歴史を変え損ねました」
 そのふてぶてしい態度に、セリム1世は、
「此奴[こやつ]!」
 と怒鳴る。
「せめて、名誉回復のためにも、先陣をお命じ下さい!」
 これを見ていた将兵は、この父にこの子ありと北叟笑{ほくそえ}む。
 こうして、セリム1世の本軍と皇太子バヤジットの別働軍は合流を果たして、
「いざセリアへ」
 と進撃を始めた。


続く
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Date:2011/11/13
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